「ありがとう。どうなることかと思った」
ナターシャを自室で寝かしつけてから リビングルームに戻ってきた瞬は、チョコレート実験の提案によって、自分をチョコレートドーナツのピンチから救ってくれた氷河に 礼を言った。
そして、なぜかそうしなければならないような気がして、氷河と並んでソファに座り、映画『チョコレートドーナツ』の視聴を始めたのである。

舞台は1970年代の米国カリフォルニア。
主役は、ゲイが多く集まるショーパブの歌手ルディと検事局に勤める検事ポールのカップル。
彼等は、母親に育児放棄された発達障害の太った少年マルコを知り、彼を放っておくことができず、自分たちの家に引き取り育て始める。
発達障害のマルコには、“まともな”人間たちが抱くような偏見が 全くない。
マルコにとって、二人はゲイカップルなどではなく、優しい保護者。
実の母親に捨てられた自分に、温かい家を与え、深い愛情を注いでくれる大切な家族だった。

しかし、三人の幸福な暮らしは、長くは続かなかった。
裁判所によって、彼等の結びつきは、社会的にも 法的にも、道徳的にも好ましくないとされ、マルコは愛情深い家族から引き離されてしまうのだ。
そして、迎える最悪の結末――。

原題は、チョコレートドーナツではなく、『Any Day Now』――『いつの日か』
性的マイノリティだから、子供に悪影響を与えると決めつけられ、愛を否定されたルディは、マルコの死を知り、歌うのである。
怒りを込めて。
祈りを込めて。

“Any day now, any day now, I shall be released”
――いつの日か、いつかはわからない いつの日か、きっと私は解き放たれる――


やはりナターシャには見せられない映画だった。
少なくとも、あと20年は見せられない。
そう思いながら、瞬が隣りにいる氷河の様子を窺うと、瞬が そうするより先に、氷河が瞬の顔を見詰めていた。
こんなものを見せられたら、いつもの氷河なら派手に憤っているはず。
しかし、氷河は冷静に瞬を見詰めている。

「氷河。もしかして、この映画のこと、知ってた?」
「ナターシャを引き取ると報告した時、ママに薦められた」
「蘭子さんに?」
やはり 氷河は、今日が初見ではなかったらしい。
氷河が浅く頷く。
「バーテンダーと医者が無戸籍の子供を引き取り育てようとするのが、夜の店に勤める歌手と お堅い検事が 発達障害の子供を引き取り育てようとする映画に 重なったんだろう。時代が違うし、おまえの姿を見て、ナターシャのマーマとして ふさわしくないと言うトンマはいないだろうが――」
「社会の迫害どころか、紫龍に春麗さん、蘭子さん、ウチの病院のメンバー ――みんなが育児に協力してくれて、ナターシャちゃんの戸籍も、沙織さんが 力を貸してくれて、何とかなったけど……」

今、この映画のような事態が起こり 裁判所の判断を仰ぐことになったとしたら、ルディとポールはマルコを保護する権利を得られるだろうか。
子供が薬物中毒の母親の手に渡されることはないだろうが、血縁者でもない性的マイノリティカップルに養育させるより、養護施設での養育の方が好ましいという判断を、裁判所は下すかもしれない。
そして、米国なら 間違いなく、『性的マイノリティを差別するな』という反論が出ることになるだろう。

「人権や平和や幸福や平等を手に入れるために、こんな犠牲を払って――この映画の時代から4、50年――21世紀になって、『いつかの日』は来たのかな……」
以前――この映画の時代より更に250年もの昔。
きっと いつか、世界中の人々が微笑んで暮らせる時代が来るはず。
いつかやってくる その時のために、僕は――アテナの聖闘士は戦い続けるのだと、今となっては懐かしい仲間に語ったことがあった。
あの時 思った“いつか”は到来したのだろうか――。
瞬のその、半分 祈りにも似た疑念への答えは、氷河から返ってきた。

「人種や性による差別や偏見が 完全になくなったとは言えないだろうな。だから、差別撤廃のための運動も続いている。先進国でもそうなんだ。宗教が差別を容認している国なぞ、差別がなくなるのは、国が滅んだ時だけなのではないかと思うくらいだ」
「ん……そうだね」
20世紀の米国に生きていたショーパブの歌手と検事は、愛する子供を奪われ失ったが、21世紀の日本に住むバーテンダーと医師は、明るく元気な女の子と 幸せな日常を営むことができている。
それでもまだ、“いつか”“いつの日か”――その時が到来したわけではないのだろう。

アテナの聖闘士だけでなく、多くの人間が 戦い続けてきたというのに。
どんな差別を受けても、愛する者のために、一個の人間として幸せになる権利を手に入れるための不断の努力を続けてきたというのに。
何百年も何千年も戦い続けてきたのに。
瞬の表情が曇る。
氷河が そんな瞬の肩を抱き寄せた。

「ガキの頃は――俺は おまえよりずっとガキだったから、“いつかの日”など 来るわけがないと思っていた。ただ 自分の目の前で 世界が滅ぶ様を見るような事態は願い下げだと思うから、戦い続けていた。“いつかの日”など来るわけがないと 半分 諦めて、俺は戦っていたんだ。だが、今は違う」
「今は違うの?」
明るく前向きな姿勢は、星矢の十八番。
氷河は少し離れたところから、斜に構えて クールに。
それが氷河のスタンスだったのに、今は違うらしい。
氷河は、当たりまえのことのように、瞬に首肯した。

「“いつかの日”の到来を諦めるわけにはいかないだろう。ナターシャのために」
世界の平和と人類の幸福のために戦うアテナの聖闘士であるところのアクエリアスの氷河が、大真面目に言う。
氷河らしいと、瞬は思った。
氷河はそれでいいのだと思う。
彼がナターシャの幸福を願うことは、そのまま人類の幸福を願うことに繋がっているのだから。

「俺は、おまえや沙織さんと違って、人間すべてを愛することはできない男だ。だが、おまえを愛しているし、ナターシャを愛している。ナターシャが大人になった頃、この世界、この社会が 今よりよい状態になっていればいいと思う。――自分だけなら、大抵のことに耐えられるし、場合によっては諦めることもできるんだ。だが、おまえのため、ナターシャのためとなると、諦められない」
瞬の唇から――むしろ全身から――笑みが零れる。
「本当に氷河らしい」
瞬は、楽しくて嬉しくて たまらなかった。

氷河は、愛する人がいるから、頑張るのだ。
愛する人がいるから、諦めない。
愛する人がいるから、戦い続ける。
それが氷河なのだ。

「おまえは そうやって笑うが、愛する者がいるということは 大事なことだぞ」
少し 拗ねたように、きまり悪げに、氷河が低く言う。
瞬は今度は、笑いながら 氷河の首に両腕を絡めた。
「笑ったのは、僕が嬉しくて幸せだからだよ。氷河がいてくれれば、僕は、“いつかの日”のために、希望を持って いつまでも戦い続けることができる」

愛する者のためにしか戦えないのは、氷河だけではなく――実は、すべての聖闘士、すべての人間が そうなのだろう。
いつか、いつの日か。
その日は永遠にやってこないのかもしれない。
いつか、いつの日か。
だが、その日は、いつか必ず やってくるのだ。
人が誰かを愛している限り。
いつか、きっと。






Fin.






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