翌朝、瞬が目覚めると、ハインシュタイン城は一変していた。
より正確に言うなら。
翌朝 目覚めたアテナの聖闘士たちが、城内からハーデスとパンドラの姿が消えていることに気付いて、城内を捜索開始。
城内に二人の姿を見付けることができず、捜索範囲を城外にまで拡大。
それでも 見付け出すことができずに城内に戻ってきた時、ハインシュタイン城の中は、人が暮らすことなどできそうにない廃墟に変わってしまっていた――のだ。

つい数十分前に アテナの聖闘士たちが見ていた、古くはあっても手入れの行き届いた快適な空間は、どこに消えたのか。
人知を超えた不思議な力には慣れっこになっているアテナの聖闘士たちも、この大掛かりな手品には あっけにとられるばかりだった。

麓の村役場の職員は――。
あの城の持ち主である当主の姉弟は、もう10年以上前から外国暮らしで、城の見回りだけを村が請け負っている。
週交代で城の見回りに行くのは、小遣い稼ぎをしたい男たちだけで、その仕事は、城が崩れる気配はないかどうかの確認をすること。
料理を作ったり、部屋の掃除をしたりする小間使いが あの城に行くことはない。
よろず開きの根を使って、妖精の国に迷い込む言い伝えは、この地方にも ありますが。
――と、そんなことを、遠い極東の国からやってきたという四人の未成年を訝っている様子で、瞬たちに教えてくれた。


沙織に経緯を報告して 指示を仰ぐと、『そんなこともあるかもしれないから、戻っていらっしゃい』とのこと。
沙織は、ドイツ・チューリンゲン産の異郷訪問譚を聞くグリム兄弟のように興味深げに、帰国した瞬たちの報告を聞いてくれた。

「迷い込んだ異郷に、自分と同じ顔をした別人がいた――というのは、グリム兄弟も収集できなかった、新しい物語のパターンなのではないかしら」
などというコメントを 余裕の笑顔で付してくるあたり、沙織は 本当に事前に『そんなこともあるかもしれない』と考えていたようだった。

「で、どうだったのか聞かせてちょうだい。あなたに そっくりだった異郷人に関しての、あなたの率直な感想を」
もしかしなくても、沙織は、ハーデスを知っている。
だから、彼女が知りたいのは、人間である瞬の目に 彼がどう映ったのかということなのかもしれない。
瞬は、そう思った――察した――のである。
彼女が、瞬ほどではないにしても 一応 ハーデスとの接触を持った星矢たちを呼ばずに 瞬だけを呼んで、“率直な意見”を聞く理由は、よくわからなかったのであるが。
「捉えどころがなくて……でも、寂しそうな人でした。悲しそうでもあった。星矢は、可愛くないって、そればかり言ってましたけど」
“率直な意見”は、どちらかといえば 星矢や氷河の得意技だったから。

「そう……」
「何ていうか、愛する人がいないような」
「愛する人がいない?」
「そんなはずはないんですが。パンドラさんがいて、彼女に深く愛されていて、彼自身、パンドラさんに頼っているようでしたし」
「彼は自分自身をしか愛せない者よ」
「そんな人がいるはずがありません」
人間の視点を、神は笑うのだろうか。
瞬のその懸念に反して、
「……そうね」
沙織は笑わなかった。

「さて。ハーデスはどう出るやら。思いとどまってくれるといいのだけど」
「何を、彼は計画しているんですか」
「地上世界の消滅……かしら」
「……」
やはり彼は神なのか。
だとしても、話が大きすぎて、目眩いがする。
「思いとどまるところまではいかなくても、あなたとの出会いが、彼に何らかの影響を与えるといいのだけど」

「彼は何者なんですか」
『なぜ 僕に似ているのか』という問い掛けは、発するのが怖い。
その答えを知っているのかもしれない沙織は、その件に関しては 何も言わなかった。
「幻影よ。今はまだ。いずれ、絶大な力を持って、私たちの前に立ちはだかる――かもしれないだけの」
だとしたら――ハーデスが、いずれ 絶大な力を持って、アテナの聖闘士たちの前に立ちはだかる可能性を持つ者なのだとしたら――。

「沙織さんは もしかしたら、彼の力を殺ぐことを、僕に期待してらしたんですか?」
「何かをしてほしくて送り込んだわけではないの。何かが起こるかもしれないと思っただけで」
「彼は、星矢たちの明るさや賑やかさには 太刀打ちできなかったようです」
「興味深い事実ね」
沙織は、かなり本気で、その事実を興味深く思ったようだった。
「私は、氷河一人だけでも、十分、お手上げ状態だけど」
楽しそうに、沙織は そういった。
その表情にも声音にも、絶望の色や響きはない。
瞬は、だから、彼女の前で、いつも通り、これまで通り、希望の闘士でいることができたのである。

「パンドラさんは優しくて、僕に親切にしてくださいました。ハーデスさんは、僕を連れて行こうとしたんですが、パンドラさんは それを止めてくれた」
「パンドラが? それは、もしかしたら とても重要なことかもしれないわ。ハーデスもパンドラも、あなたが気に入ったのでしょう。彼等にも、あなたを嫌ったり蔑んだりすることはできなかった。そういう人間がいることを、彼等は知った。それは いい変化なのかもしれない」
沙織の瞳と声には、相変わらず 希望がたたえられている。
彼女の真意は わからないが、その希望には同調できる。
瞬は、沙織の希望に釣られるように 微笑した。

「ところで、瞬。あなた、氷河をどうするつもり? 『俺と瞬の間を引き裂こうとする者は、たとえ それがアテナであっても倒す』だなんて、もし人前で言われていたら罰しなければならないようなことを、後先考えずに堂々と言ってくれるものだから、私も 氷河の対処には困っているの」
「え……? 氷河が そんなことを?」
たとえ 冗談でも――もちろん、冗談だと思うが――なぜ、氷河は そんなことを言うのか。
瞬は一瞬、目の前が真っ暗になってしまったのである。
アテナの力をもってしても治めることのできない氷河の暴走を、所詮 一介の青銅聖闘士にすぎない自分に どうすることができるというのか。

「す……すみません。あとで、氷河に、言動は慎重にするように、言っておきます」
『言動は慎重にするように』と言われて、その忠告に素直に従ってくれる氷河なら、アテナも苦労はしないだろう。
「ええ。でも、あなたも そろそろ覚悟を決めておいた方がいいかもしれなくてよ」
瞬に そう告げる沙織の声に、希望の響きはない。
希望の代わりにあるものは、同情の響き。

戦いは、それがどんな種類の戦いであっても、単純ではない。
それは、強い者が勝つとは限らず、常識的に正しいと見なされる側の人間が勝つとも限らない。
だから、奇跡が起きるのだ。
世界の存続がかかった戦いも、人の生死がかかった戦いも、そして 恋の戦いも。






Fin.






【menu】