「瞬先生。この辺りの母親はみんな、瞬先生には困らされてるんですよ。悪さをした子供たちが すぐに瞬先生のところに逃げ込んじまうから。瞬先生のところに 逃げ込みさえすれば、どんな悪さをしても ぶたれないって、子供たちは知ってるんです」
診療所の診療室で、多分に呆れ 疲れ切った様子で 瞬にそう言ったのは、瞬の許に逃げ込んだ子供を引き取りに来た30過ぎの母親だった。
その日、何が気に入らなかったのか 突然 妹を泣かせた兄が、その妹を連れて、瞬の診療所に逃げ込んでしまったのだ。
母親の方も慣れたもので、瞬の診療が終わった夕刻を待ってのお迎えである。
瞬の許に逃げ込んだ子供たちは、家族のお迎えが来るまで、診療所の床掃除や洗濯の手伝いをするのが お約束になっているのだ。

「子供たちが ご両親に叱られるようなことをするたび、僕のところに逃げ込んでくる風潮は よくないと、僕も思ってはいるんです。すみません。でも、ここに逃げ込んでくる子供たちの大部分は、診療所のための奉仕作業をしているうちに、自分のしたことの意味を考えて、反省して、自分が謝るべきだと わかってくれますから」
子供たちは、そうなった事情や経緯も確かめない大人たちに、ほとんど反射的に ぶたれるのが 嫌なだけなのだ。
親の方も そんなことをせずに済むなら、それが何よりである。

「ですが、今日は――ビオンくんは、お母さんを診療所に連れてくるために、アニスちゃんに大声で泣けと命じただけなんだそうです。お母さんの左の肩あたりに、赤い腫れ物が広がっているのに気付いたそうで――痛がっていると聞きました」
「あの子が 私のために……?」
瞬に 息子の悪さの理由を知らされて、母親は息子を叱る気が失せたらしい。
小さな妹の手を握って、瞬の陰に隠れるように立っている我が子に、彼女は泣きそうな目を向けた。

「母さんの赤いの、瞬先生は、タイジョーホーシンって病気だろうって言ってた。今、流行ってるんだって。治療しないとならない病気なんだって」
「治療しないといけないって、命に関わるような病気なんですかっ !? 私、この子たちが大きくなるまで死ねないんです!」

真っ青になって訴える母親に、瞬は、すぐに、それが 適切な対応をしさえすれば命に関わるような病気ではないことを教えてやった。
ただ、帯状疱疹は、水疱が破れた時に触ると 人に感染する病気なのだと。
家族や周囲の人たちのためにも 治療させてほしいと瞬は言い、母親は瞬に治療を頼んだ。
彼女の息子が、それで安心した顔になる。
もちろん、彼は 母親に叱られることはなかった。

そんなふうに、“絶対に怒らない 優しい瞬先生のいる診療所”は、中立地帯に暮らす者たちが駆け込み訴えをする避難場所のようなものになっていた。
駆け込んでくるのは、その9割方が 大人に叱られるようないたずらや過ちをしでかした子供たちで、それは氷河も さほど問題視してはいなかったのである。
そういう子供たちは 子供たちなりに、瞬の診療所のために働いてくれたから。
問題は それ以外の1割の方だった。

「いたずら坊主や孝行息子の一時避難所になっているだけならいいが、時々 大人の犯罪者までが逃げ込んでくるのは問題だぞ」
氷河は、瞬の診療所の現状が気に入らない――というより、最近は本気で憂えていた。
いたずらをして親から逃げてくる子供たちは、瞬が ぶたないから 瞬の許にやってくるのだが、大人の犯罪者たちは 瞬が抵抗も反撃もできないことを知っているから、瞬の許に押し入ってくるのだ。

「僕が意気地なしなせいで、ごめんなさい。氷河がいてくれるから、大事に至らずに済んでることは よくわかってるし、氷河には心から感謝してます。氷河がいてくれなかったら、この診療所は、病人でも怪我人でもない人たちで占領されて、僕は とうの昔に命を落としていたと思う」
「……俺が おまえの役に立っているのなら、これほど嬉しいことはないが、おまえは もう少し 我が身を守ることを考えた方がいい。おまえは、人を傷付けるくらいなら 自分が死んだ方がいいと考えているようで――おまえの 自分の命への執着の無さが、俺は怖いんだ」
「氷河は心配いしすぎ。僕だって、生きていたいっていう気持ちは ちゃんと持ってるよ」
「ならいいが……」

微笑んで そう答える瞬の言葉や心に嘘があるとは思わない。
だが、瞬の無防備や攻撃性の欠如は、人の善意を信じるがゆえであるにしても極端すぎる。
――と、氷河は思わずにはいられなかった。
氷河は、瞬に生きていてほしかったから。
瞬には、他の誰よりも生きて存在する価値があると思うから。

瞬は指先の小さな擦過傷といい、実際に一瞬で それを治してしまったが、この中立地帯にやってきた時、氷河が 命の危険にさらされていたのは事実だったのである。
誤って、自分の指に 永遠に解けないはずの凍結技を仕掛けてしまった。
その力は、血管を伝って心臓に届いていた。
あとは、その力が氷河の身体のすべての血管を侵し、氷河の全身が内側から凍りつく時を待つしかない――という状態だったのだ、あの時、氷河は。
それは瞬を一瞬で、治療しようと意識すらせず、治してしまった。
氷河の手に触れるだけで、永久凍結の力を融かしてしまった。

瞬には 今でも、あの時 自分が一人の男を死地から救い出したという自覚がないようだった。
氷河は 指の小さな怪我を 軍隊から逃げ出すための口実に使っただけなのだと、瞬は信じている。
だが、氷河にとって瞬は 間違いなく命の恩人だったし、だから 氷河は瞬に恩返しをするために 中立地帯に留まることを決意した。
瞬に恋情や欲望を感じるようになったのは、その後のこと――瞬が稀に見る名医なだけでなく、異様に可愛く 傍迷惑なほど優しい人間だということを知ってから――のことなのだ。
瞬を犯したいと思う自分に、氷河は罪悪感を感じることさえあった。






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