夕べは 夕べのうちに帰宅できた。 それは一日の始まりを夜明けとした場合の見方で、俺の実際の帰宅時刻は (時計の上では翌日の)午前3時前頃だったんだが。 目覚めたのは8時頃。 瞬がすっかり身仕舞いを整えて、ベッドの脇に立っていた。 ずっと 俺の寝顔を見詰めていた――らしい。 機嫌が悪いようにも見えないが、目が笑っていない。 俺は、夕べ、何かしたか? 家に帰ってきて――既に就寝していた瞬の身体に ちょっかいも出さず、俺は極めて紳士的に、瞬の隣りに潜り込んだ。――だけだったはずだ。 紳士的すぎたのがよくなかったというのなら、次回から注意するが。 瞬は、目は笑っていないが、だからといって 機嫌が悪いわけでもなかったらしい。 俺はいつも、言動も表情も声も優しい瞬に慣れてるから、そのどれか一つが緊張してると、つい過剰反応してしまうんだ。 「おはよう、氷河」 瞬の声は、優しかった。 そして、いつも通り、俺に引き継ぎ情報を伝えてくる。 「ナターシャちゃんは、今、ダイニングで 朝ご飯を食べてるよ。ご機嫌が悪いわけじゃないけど、どこか思い詰めた様子。僕はこれから病院に行くけど、氷河に ナターシャちゃんを任せて大丈夫?」 「大丈夫だ。4時間は寝た」 わざわざ確かめなくても、もともと俺(たち)は 数日くらいは 寝なくても平気な身体だ。 そういう意味で、俺は『大丈夫』と答えたんだが、瞬が訊いてきた『大丈夫?』は、そういう意味の『大丈夫』じゃなかったらしい。 瞬は、瞬が問うた『大丈夫』の意味を、俺に語り始めた。 「今朝 起きたら、ある記憶が蘇ってきたんだ。城戸邸で初めて氷河に会った時、氷河は、僕に、『僕たちの出会いは 不思議な女の子に予言された運命の出会いなんだ』って言った。聖闘士になって再会した時、同じことを言われて、口説かれた。1年前、また同じことを言われて、僕は ナターシャちゃんのマーマになった」 「それが?」 それは 事実だ。 作り話でも何でもなく、俺たちの出会いは、俺が俺のマーマを失った時に予言されていたものだった。 あの頃、俺は、不思議な予言をする小さな女の子に会って、運命の出会いと幸福を 予言してもらったんだ。 そして、あの予言は、すべてが的中した。 予言通りに、俺は幸せになった。 俺は今、幸せの ただ中にいる。 そんな今更なことを、糞真面目な顔をして語る瞬を訝りつつ首肯した俺に、瞬は 驚くべき一言を投げかけてきた。 「この記憶、昨日まではなかったと思う」 という、一言を。 「なに?」 瞬は何を言っている? 何を言い出したんだ。 そんなことがあるはずがない。 瞬がナターシャのマーマになってくれた1年前。 聖闘士になった瞬と再会した 十数年前。 俺たちが初めて出会った二十数年前。 俺は、瞬に、『俺たちは、出会うべくして出会った』と言った。 そういう予言を受けていたから。 二十数年前にあった記憶が、昨日 突然 出現するなんてことがあるわけがないじゃないか。 いや、ちょっと待てよ。 二十数年前の記憶が、昨日 突然 出現することが不可能でないことを、俺たちは知っている。 あの神の力を借りれば、それは可能だ。 昨日 誰かが、マーマを失ったばかりの俺のところに飛んで、その記憶の種を、ガキだった俺に植えつければいいんだ。 大きな目をした女の子。 確か、真っ赤なコートを着ていた。 『こういう派手で目立つ色のコートの方が、車や自転車の運転手にも通行人にも注意してもらえるんだ』と論理的に迫って、去年 瞬に買わせたナターシャのコートそっくりのコート。 「……」 “そっくり”じゃなくて、“そのもの”か。 二十数年前、マーマを亡くしたばかりの俺のところに現れた不思議な少女は、昨日 あの時代に飛んだナターシャだった――ということか? 少しずつ、記憶が蘇ってくる。 予言の内容だけを はっきり憶えていて、顔も忘れていた不思議な女の子。 歳に不釣り合いなほど 考え深げな、大きな瞳。 少しずつ少しずつ、記憶が蘇ってくる――。 「あの不思議な女の子は、俺が いちばん悲しくて つらくて 寂しかった時代に飛んで、いちばん悲しくて つらくて 寂しい俺を 励ましてやるために、ここに来た――と言っていた」 「そう……。ナターシャちゃんらしいね」 「翌日、日本に行くことになってると言ったら、自分は 一人ぽっちの寂しいナターシャのままでいいから、日本に行くのをやめてくれと、俺に言った。大粒の涙を ぽろぽろ零しながら、そう言ってくれたのに、俺は その忠告に従えなくて――」 『日本に行くのは やめて! それで、パパがナターシャのパパになってくれなくてもいい! パパがナターシャのマーマに会えなくてもいい! ナターシャが幸せになれなくてもいい! ナターシャは、一人ぽっちの寂しいナターシャのままでいい! パパが 悲しくて つらくて 寂しいパパになるのは嫌! 行っちゃ駄目!』 ガキだった俺が、結局 従うことのできなかった その忠告を、ナターシャは どんな気持ちで叫んだのか――。 泣けない俺の代わりに、瞬の瞳に 涙が盛り上がってくる。 「僕たちの娘は、人の幸福を 心から願うことのできる、本当に 優しい子に育ってるね」 俺の言いたいことを、口下手な俺に代わって、瞬が口にしてくれる。 俺は、だから、頷くだけでいいんだ。 今日の引き継ぎ事項の報告完了。 珍しく、瞬が、自分から俺にキスしてくれた。 「じゃ、行ってきます」 『行ってらっしゃい』の代わりに、俺は、 「ありがとう。愛してるぞ」 と応じた。 ナターシャを こんなに優しく賢い子に育ててくれて、ありがとう。 さすがは、俺の瞬。 世界でいちばん 優しくて強くて綺麗な人。 俺たちを出会わせてくれた運命に、俺は ただ感謝するのみだ。 さて。 では、起きるとするか。 そして、ダイニングルームに行って、ナターシャに訊いてみよう。 『ナターシャ。夕べ、俺にも瞬にも内緒で、何か冒険をしてきただろう?』と。 Fin.
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