バビロニアでは、王の交代は、滅多に起きない大事件ではなく、日常茶飯時とまではいわないが、しばしば起きる 恒例行事である。 それでも、前王が次の代の王を指名することは 初めてのことで、王の交代を知らされた王宮では それなりに 混乱や騒ぎが生じた。 だが、次代の王は、王の務めを バビロニア王宮で最も熟知している男。 ゆえに、王宮内の騒ぎは 早々に静まったのである。 歴代のどの王よりも 王の務めを知っているという自負を抱いていたに違いないハンムラビは、いざ実際に瞬から王位を譲られ、王になるよう言われると、ひどく恐縮し、 「ご期待を裏切らぬよう、精進します」 と、ただの官吏でいた時より 謙虚な態度で、瞬に頭を下げた。 彼の治めるバビロニアが これから どんな国になっていくのか、氷河は――おそらく アテナも―― 大いに興味深く思ったのである。 野心と能力のある王。名君になるか、強王になるか――彼が平凡な王で終わらないことは確実だった。 そうして。 王の交代が知らされた王宮の喧騒を避けた一室で、アテナと瞬の非公式の(非公式であるがゆえに、親密な)対面が執り行われた。 「アルビオレから報告は聞いていたのよ。おそらく私の聖闘士がバビロンの町にいると。氷河を派遣したのは、私の聖闘士がバビロニアの国王に選ばれてしまったらしくて、どうしたものかと悩んで……人間である あなたのことを、神である私が決めるわけにはいかないでしょう? だから、人間ならどう判断するのかと、氷河を この国に派遣してみたの。氷河は、良くも悪くも 聖域で最も人間的な聖闘士だったから」 聖域は、他国の内政に干渉することを避けるし、神が 人間界に干渉することも避ける。 それが アテナのやり方で考え方。 だから 最も人間的な聖闘士である氷河をバビロニアに派遣したのだと、アテナは言った。 「そうしたら、氷河から、何としても あなたを聖域に連れ帰りたいから、すぐに星矢と紫龍をバビロニアに派遣するよう、連絡がきて――」 「瞬がアテナに会うことを切望しているようだったからです。俺と一緒に聖域に来てくれるか、瞬」 ほとんどアテナの言葉を遮るように、氷河が声を割り込ませていったのは、バビロニア神殿の塔の倒壊が聖域の聖闘士の仕業(つまり人間の仕業)だということを、瞬に知らせないためだった。 神殿の塔が突然 倒れたのは、バビロニアの神の怒りによるものと、氷河は、瞬に思わせておきたかったのだ。 その方が、瞬に罪悪感を抱かせずに済む。 そういう姑息な気持ちから つい口を突いて出た『俺と一緒に聖域に来てくれるか、瞬』に、瞬は 弾んだ声で、 「もちろん、喜んで」 と即答してきた。 それこそが瞬の本当の心からの望みだったのだから、瞬の即答は当然のものだったろう。 当然のものだったのだが、その当然のものを、氷河は 声が ひっくり返るほど 喜んだ。 「そうか。俺と一緒に来てくれるか!」 「はい。光栄です、アテナ!」 「なに……?」 その段になって、氷河は初めて気付いたのである。 瞬が聖域に行くということは、“氷河と一緒に行く”ではなく、“アテナのいる場所に行く”なのだということに。 氷河が、胡散臭いバビロニアの神官たちの卑劣な罠と 一国の王という堅苦しい義務から 瞬を解放するために翻弄したのは、綺麗で善良で優しい瞬が どんぴしゃで氷河の好みだったからだった。 その瞬に並々ならぬ好意を抱いている氷河という男と共に、瞬が 聖域で 美しくも有意義な愛の日々を過ごせるようにするためだった。 しかし、瞬は、氷河がそれをしたのは、瞬のためではなく、もちろん氷河自身のためでもなく、バビロニアの国とバビロニアの民と正義と世界の平和のためだったのだと 信じているようだった。 それこそが、“国”ではない聖域、無国籍であると同時に 世界という国の民であるアテナの聖闘士の務めなのだと。 醜く浅ましい権力欲に執着しているバビロニアの神官たちを無力化することより、聖域の内政干渉に気付かれることなく バビロニアの国王を交代させることより、瞬の心と眼差しを恋に向けさせることの方が はるかに難しい大事業だということを 氷河が思い知るのに、さほどの時間はかからなかった。 瞬は世界の平和を守るために戦うアテナと、そんな彼女の理想に共鳴し、正義と平和を守るために戦う聖闘士たちに憧れ、恋をしているのであって、氷河個人に特別な好意を抱いているから、氷河と一緒に聖域に来ることにしたわけではないのだ。 瞬の心と眼差しが“世界の平和”から 氷河という一人の男に向かうようにする難事業。 その難事業を成し遂げることができるのかどうかは、アテナにも予測不可能なことだった。 だが、多少の困難に出会っても、希望を捨てず諦めないのがアテナの聖闘士。 瞬の一途と 氷河の一途。 性質を異にする二つの一途の戦いは、まだ始まったばかり。 その戦いは、なかなか いい勝負になりそうだった。 Fin.
|