ソラ町人命救助事件の第四幕は、警視庁定例記者会見の場で 始まった。
逆帯氏に殺された少女の実父の父(虐待されて亡くなった少女の祖父)が、殺人未遂の罪で自首してきた――というのだ。
警視庁は、傷害未遂の重要参考人として、老人から事情を聞いているという。

息子夫婦の離婚によって、たった一人の孫娘に会えなくなった。
それだけでも切なかったのに、たった一人の孫を、見知らぬ他人に殺されてしまったのである。
孫の死のショックから来る心労が たたって、彼の妻(少女の祖母)は 孫のあとを追うように亡くなり、彼自身も 昨年 膵臓癌で余命宣告を受けた。
だからこそ、彼は、孫娘を殺した男に会うことを考えたのかもしれない。
孫娘の命を奪った男を、責めたかったのか、謝ってほしかったのか。自分が許されたかったのか、自身の人生の清算を行ないたかったのか、それは自分でもわからないと、老人は言っているらしい。

彼は、定年後 しばらく、ソラ町に食品を納入する配送会社のバイトをしていたことがあって、ソラ町のバックヤードに従業員専用通路や食品貯蔵用の冷蔵室があることを知っていた。
逆帯氏とは 最初は、ソラ町ダイニングフロアにあるカフェに入ったのだが、言葉を交わしているうちに、怒りで つい声を荒げてしまったので、人の耳目のないバックヤードに移動したらしい。
そこで、彼は、逆帯氏から 反省や謝罪の言葉を聞くことはできなかった。
そして、彼がまた、連れ子のいるシングルマザーと同棲していることを知らされた。

この男はまた 同じ過ちを犯す。
悪魔のように冷酷に、笑いながら、同じ過ちを犯す。
そう思った途端、彼と対峙していることが怖くなり、彼を冷蔵室の中に突き飛ばして、老人は その場から逃げ出してしまったらしい。
逆帯氏に対して 殺意があったかどうかは、よく憶えていないとのこと。
あったかもしれないが、彼が死なないことは わかっていた。
彼は携帯電話を持っているだろうし、冷蔵室には、テナントの店員や食品納入業者が入れ替わり立ち替わり やってくる。
どんなに長くても、彼が そこに15分以上 閉じ込められることはない。
そう考えて、老人は さほどの躊躇も覚えず、その場を立ち去ったのだそうだった。

実際、逆帯氏は、老人が逃げ去ってから 10分後に、テナントの従業員が食品を取りに来た際、その店員の目を盗んで、無事に冷蔵室の外に出ることができたのである。
こそ泥のように、こそこそと振舞ったのは、それこそ 食料品を盗みに来た こそ泥と思われるのが嫌だったから――であるらしい。

「そして、ここからは医師と我々の推測なのですが、逆帯氏は、寒い冷蔵室から 常温の従業員専用通路に出たために、ヒートショックで心筋梗塞を起こし、心肺停止状態になって倒れた。倒れていた逆帯氏を ナターシャちゃんが見付け、逆帯氏は ナターシャちゃんと旧徐氏に救われた。――ということのようです」
これまでは、あの男は 死んで当然の男だと思っていた。
冷蔵室で死ぬようなことになっても、それは自業自得だと思っていた。
助かって、『殺されかけた』と告発したいなら、すればいいと思っていた。
それまで、知らない振りをしていればいいと思っていた。
だが、あのひどい男が、殺された孫と同い年の女の子に救われたということを知って、自分だけ 知らぬ振りはできないと思った。
だから、自首してきた。
――と、その老人は言っていたらしい。
今は病院に入院して、起訴できるかどうか(罪の内容的にも、時間的にも)を検討中ということだった。


余命宣告された老人を責めることはできないらしく、世論は彼に同情的だった。
匿名で言いたい放題をするのが身上のネット民でさえ。
最近は、『紫色のダウンジャケットなんて、それだけで更生する気がないことがわかる』などという理不尽な理由で、逆帯氏一人が非難と攻撃の的になっている。
この騒動で ただ一人、そして最後まで、逆帯氏だけが 心の見えない登場人物だった。

そんなふうに、人の心以外の謎はすべて解けたが、だからといって、『ソラ町人命救助事件』が大団円になるわけでもない。
誰もが すっきりするわけでもない。
皆が 笑顔になるわけでもない
失われた女の子の命は戻らない。
だから、皆の後悔は消えないのだ。
人間らしい心があるのかどうか わからない逆帯氏も、二十代の貴重な時間を刑務所で過ごすことになったのだ。
全く後悔していないということはないだろう。

時間を過去に戻せたら。
養父の虐待をやめさせ、無理にでも 自分が引き取ればよかったと、悔やむ祖父。
違う対応をしていたら、少女の命を救うことができたかもしれないと考える 児童相談所や警察。
少女のことを知っていた近所の住人も、死んでから少女のことを知っていた大多数の人間も、誰もが胸中に後悔を抱えている。
取り戻したいのは、少女の命。
しかし、その願いは叶わないのだ。

誰もが過ちを犯す。
過ちを犯さない人間はいない。
過ち多き人間にできることは、犯してしまった過ちを どうすれば避けられたのかと考えることだけ。
同じ過ちを繰り返さないようにすることだけだろう。
どんなに 悲しい過ちにも、どんなに つらい事件にも、救いや未来への希望は残るものである。

先日、もふもふのリボンをつけた小さな女の子と 彼女のパパとママの写真を添付したメールが ナターシャの許に届いた。
メールの送り主は旧徐氏で、メール本文は、『うちの娘は可愛いでしょう?』だけ。
旧徐氏としては、それは、ナターシャの忠告に従い、堂々と娘を『可愛い』と言えるようになった自分を報告するメールだったろう。
だが、それが、見事なまでに、氷河の対抗意識に火をつける挑発メールになっていたこともまた、紛う方なき大事実。
ここのところ 氷河は、朝となく昼となく夜となく、ナターシャの可愛い写真を撮ることに 情熱のすべてを傾けている。






Fin.






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