最初に自身の死を悟った時、彼女は、たとえ自分が死んでも伏野医師が 自分のことを忘れないようにするための別れの手紙を綴ったのだろう。
言葉では どう書いたにしろ、『私を忘れないで』と訴える手紙を用意していた。
だが、伏野医師の求婚で、彼女の考えは変わった。
彼を自分に縛りつけてはいけないのだと考え直したのに――そう伝える前に死なねばならなかったから、彼女の霊は、それが心残りで、この地上に留まることになったに違いない。

やがて、伏野医師に 霊の声を聞きとる力があることを知り――もしかしたら、デスマスクが勘繰ったような企みも、全く考えなかったわけではないのかもしれない。
さすがに 乙女座の黄金聖闘士の身体を使って、その野望を実現しようとしたのだとは思われなかったが、それは絶対にあり得ないと断言することもできない。
だが、最終的に彼女は諦めた――のだ。

デスマスクの説得で?
そうかもしれない。
しかし、それだけではないだろう。
伏野医師は、穂積麗を愛している。
伏野医師にとっては、穂積麗こそが 永遠の運命の人。
自分への伏野医師の愛を 疑いなく信じられるようになったから、彼女は 思い切ることができるようになったのだ、おそらく。
自らの生、恋、独占欲、愛――。

ナターシャの声なのに――確かにナターシャの声なのに、その声には伏野医師への愛が滲み、沁み込み、溶け込み、絡みつき、織り込まれていて、伏野医師への彼女の愛が 今は完全に無償のものになっていることが、瞬には感じ取れた。

「仁志くん。私は幸せだった。生きてる間ずっと、仁志くんと一緒にいられた。多分、長生きしたら、私は仁志くんのお荷物になって、そのことで卑屈になっていたと思うから……私は 多分、いちばん いい時に死ねたんだと思う」
「何を言っているんだ、麗!」
「仁志くんは自由に生きて。仁志くんは、私から解放されて、自由に生きて。そう言わなきゃ、言わなきゃって、いつも思ってたのに、今まで言えずにいた。ごめんね」

伏野医師は、なぜか戸惑っているようだった。
彼は慌てていた。
伏野医師は、穂積麗と一緒にいるのが いつも当たり前のことだったから、『解放されて、自由に生きて』――『一人で生きて』と言われても、それがどういうことなのか、わからないのかもしれない。

「麗。何を言っているんだ。僕たちは ずっと一緒だろう? 身体なんか なくたっていいんだ。麗がいてくれれば――麗の心を感じられるだけで、僕は――」
伏野医師が、まるで母親に捨てられかけている幼な子のように 取り乱している。
だが、それでも彼は、心のどこかで わかっているようだった。
この別れは仕方のないこと。
生きている人間は、誰もが いつかは死に、生きている人と別れなければならなくなる――。
わかっているから、彼は、彼にとって他人であるナターシャに触れようとはしないのだ。

「私は、薔薇や蘭の品種の名は知っていても、ハコベやカタバミやツリガネソウの名前は知らなかった。日本タンポポと西洋タンポポの違いも、仁志くんに教えてもらうまでは知らなかった。花屋に頼まなくても、花を見られることを教えてくれたのも、仁志くん。草笛の吹き方、草相撲の遊び方を教えてくれたのも仁志くん。私の知らないことを たくさん知ってる仁志くんを、私は尊敬してた。白詰草で 花冠を作ってくれた仁志くんが、私は大好きだった」

「……麗、行かないでくれ」
「私は どこにもいかない。私はもう、この世界の一部になってしまってるの。だから、仁志くん。仁志くんは、私以外の素敵な人を見付けて、その人と幸せになって」
「麗……!」
おそらく、生きたいた時も、死んでからも、言いたくなかった その一言。
言えたから――穂積麗は、今度こそ本当に、思い残すことはなくなったのだろう。
言えたから――ナターシャは、元のナターシャに戻っていた。

「パパーっ!」
ナターシャが、氷河の腕の中に飛び込んでいく。
デスマスクは、境内の結界を解くと、無責任にも そのまま さっさと姿を消してしまった。

「伏野先生、大丈夫ですか」
穂積麗の消えた場所に呆然と立ち尽くしている伏野医師に、優に2分以上 ためらってから やっと、瞬は 声を掛けることができたのである。
伏野医師は、こちらも優に1分以上 何も答えず、最後に泣きそうな声で、
「あんなこと、言われたくなかった」
と言った。
穂積麗の生死にかかわらず、彼自身は 永遠に麗と共にいたかったのかもしれない。



彼が信州の病院からの招聘を受けて 光が丘病院を去ったのは、それから まもなく。
「一人でも生きていけるようになります」
そう言って、彼は、麗との思い出の残る故郷の地に帰っていった。
新しい病院に着任後、挨拶状が一通 送られてきたので、返信を送り――それきり瞬は伏野医師とは連絡を取っていない。

「あの男は、おそらく、穂積麗以外の女を愛することはないだろうから、それでいいんだ」
と、氷河は言っている。






Fin.






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