「君は、君自身の戦いを後悔し、戦わずに済ませられていたら――と言うが、君の仲間たちの戦いと勝利をも責めるのか?」 「責めませんよ。ただ僕にもっと力があったら、仲間たちの戦いも別の形で終わらせることができたのではないかと思います。いえ、そもそも戦いを始めさせずに済んだかもしれない、と」 「すべては自分の力不足のせいだと?」 その通りだが、ここで『その通りです』と答えることは、嘘をつけない瞬にも、さすがにできることではなかった。 極めて婉曲的に、肯定の意を示す。 「……傲慢な考え方だということはわかっています」 婉曲的とはいえ、肯定。 アフロディーテは、口許を引きつらせた。 「ああ、傲慢だ。君のその考え方は、突き詰めていけば、すべての人間を問答無用で自分に従えることができずにいたアテナを責める考えに至る。更には、世界をそのように創った創造神の過ち、力不足ゆえだということになる」 アフロディーテの杞憂は、ごく自然なものだったろう。 とはいえ、論理的に どれほど自然でも、杞憂は杞憂にすぎない。 どれほど案じても、杞の国の人の上に 空は落ちてこないのだ。 「僕は、そこまで傲慢ではありませんし、そこまで危険なことも考えていません。そんなことを考え始めたら、僕は、今 ある世界を壊し、すべての神も滅ぼして、僕自身が僕の力で 無から造り出すところから始めなければならなくなる。今ある人間の世界を滅ぼそうとしている神々と同じ考えに行き着く。ですが、僕は人間です。今、自分が生きている この世界――未熟で不完全な世界、未熟で不完全な人間たちを愛しています」 「そう……そうだな」 「もちろん、そうですよ。そんな極端で過激なことは考えていません。人間と世界が少しずつでも 良い方向に変わり、その存在を神に認めてもらえるよう、僕は努めるだけです。僕は未熟で、永遠に未熟。過ちも犯すし、欠点もある。完全な正義でもない」 「君は そこまで平凡な人間ではあるまい」 急に傲慢の影が消えた瞬に、アフロディーテは、徐々に風船がしぼんでいくような――微妙な気の抜け方をした。 もしかしたら この人は、自分を倒した生意気な元青銅聖闘士の行く末を案じているのだろうか。 瞬は、絶対にあり得ない、そんなことを考えた。 この世に、人間のすることで“絶対にあり得ないこと”はないかもしれないが、少なくともアフロディーテは、その“絶対にあり得ないこと”を 『その通りだ』と認めることは、絶対にしないだろう。 「人間は、誰も平凡なものですよ」 アフロディーテの嫌がりそうな考え方。 だが、それが現実なのだから仕方がない。 “特別な人間”など、人体という一つの世界の中で、精子細胞が表皮細胞に対して 自分は特別な細胞だと言い張っている程度のものにすぎないのだ。 「そして、平凡な人間の一人である僕は信じている。人間の世界から戦いが消え去り、理不尽な暴力に苦しめられる人が存在しなくなり、神が人間の存在を許してくれる日が いつか、誰もが幸福で平和に暮らすことができる日が いつか――いつか、その日が来ると信じている。永遠に信じている。そんな日は、永遠に来ないだろうとも思いながら、その日の到来を 永遠に信じ続けるんだ。本当に矛盾している……」 「永遠に――」 アフロディーテが、瞬の言葉を繰り返す。 そうして彼は、初めて 腑に落ちたような顔になった。 憑き物が落ちたような表情で、 「やはり、君は、私に『許す』と言われたくなかったんだな」 と言う。 一瞬、脈絡がないと思いかけ、そうではないことに気付く。 脈絡はあるのだ。 それは繋がっている。 「私一人に『許す』と言われても、無意味。君に敗れた者たちすべてが、君を『許す』と言っても無意味。君が君自身を許せないのだから、誰の許しも無意味。君は、永遠に許されたくはなかった。だから 君は、自分の命ではなく他人の命を守り救うために、一生、人の命を救うために努め続ける医師になった。償い終わることのない罪を、一生 償い続けるために」 「ええ」 アテナを待ちきれず、身近にあった力を信奉するという過ちを犯すことはしたが、アフロディーテは決して愚鈍な男ではない。 深い洞察力も 的確な判断力も、彼は有している。 彼はただ、それらの能力を、自分が価値を置いていない人間のためには用いようとしないのだ。 青銅聖闘士だった頃の瞬を、彼は虫けら程度にしか認識していなかったから、瞬の心も考えも理解できなかった。 今は“自分と同じ人間”程度に思うようになったから、瞬の考えを察することができるようになった――のかもしれない。 「そう言ってもらいたかったのか。君は、私に。『許す』ではなく、『絶対に許さない』と。『永遠に後悔し、永遠に苦しみ、永遠に 罪を贖い続けろ』と」 アフロディーテは馬鹿ではない。 瞬は頷いた。 「本心を言えば、そうです。許さないことが正しいと思う。どんな理由、どれほど美しい大義名分があったとしても、人の命を奪うということは、取り返しのつかない過ちです。『ごめんなさい』では済まないことだ。当然――命を奪われた側の人間は当然、自分の命を奪った人間を許すことはできない。許すべきではない」 「なるほど。実に君らしい」 得心がいったように頷いて、そうしてから、アフロディーテは、唇の端に薄く皮肉めいた微笑を浮かべた。 「仲間同士なのに、白黒きっちり片を付け、決着をつけて綺麗さっぱり すべてを忘れ、さっさと次のステージに進んでいく星矢とは真逆だな、君は」 「人間の生き方や考え方は、互いの命を預け合った仲間同士でも、いろいろありますよ。皆 同じだったら、気味が悪い」 「それは そうだ」 「悔いのない人生なんて、星矢ほど思い切りがよくて 忘却力に優れていないと、まず不可能。僕は平凡な人間です。それでいいと思っています」 「私も、星矢と同類項で くくられるよりは、平凡な人間に分類される方が、不快にならずにいられるな」 「星矢に言いつけますよ」 「彼も私と同意見だろう」 アフロディーテは、皮肉が勝って、過剰ではないほどに自信家の、いつもの彼に戻っていた。 アフロディーテは本当に、職場訪問のために ここまでやってきたのかと、瞬は彼に確かめようとしたのである。 その直前に、日曜日の公園に 最もふさわしい空気と姿を持った人物が、元気に明るく登場した。 |