光が丘公園の南口から出たところにある和風の甘味処で出してくれたお茶には、残念ながら茶柱は立っていなかった。
『お客様に出す お茶に茶柱は立たない』と聞いていたナターシャは、特段 残念がる様子は見せなかった。
山盛りのイチゴと あんこと黒蜜で構成されたイチゴあんみつに、目も心も奪われて、ナターシャは茶柱どころではなかったのである。

イチゴとあんこと黒蜜のハーモニーに満足げに頷いているナターシャに、瞬が、
「ねえ、ナターシャちゃん。ナターシャちゃんは、引きこもりなんて言葉、どこで覚えてきたの?」
と尋ねたのは、イチゴとあんこと黒蜜のハーモニーに目と心を奪われているナターシャに早食いをさせないためだった。
もちろん、ナターシャが どこから その言葉を仕入れてきたのかということも 気になってはいたのだが。
てっきり、周囲の大人たちの誰かから聞いたという答えから返ってくると思っていたのに、ナターシャからの答えは、
「ナターシャに引きこもりのお友だちがいるんだよ」
だった。

「えっ !? 」
瞬が驚きの声を上げると、ナターシャは その声に驚き、そして 慌てたようだった。
「あ、内緒だった! ナターシャに引きこもりのお友だちがいることは内緒ダヨ、パパ、マーマ!」
『だから、誰にも言わないで』と真剣な顔をして言うナターシャに、氷河と瞬は、『誰にも言わない』と約束したのである。
ナターシャから、引きこもりの仕入れ先の情報を引き出すために。

ナターシャの引きこもりのお友だちは、ちびっこ広場にやってくる よそのおうちのママたちと同い年くらいの女の人で、知り合ったのは、光が丘公園の土管の中。
彼女は いつも、くるぶしに届きそうなほど長くて黒いダウンコートを着ているらしい。
一ヶ月前、ナターシャが ちびっこ広場で遊んでいると、公園の土管の中から色鉛筆が転がってきて、それを拾ってあげたのが、引きこもりのお姉さん(と、ナターシャは言った)との最初の出会いだった。

『拾ってください』
と土管の中から頼まれ、ナターシャは、転がってきた色鉛筆を拾って土管の中に届けてやった。
その時、ナターシャは、彼女から、
『ありがとう。私は 人生に失敗した 引きこもり人間で、だから怖くて、外に出られないの』
と自己紹介されたのだそうだった。

いつもは、家の中に引きこもっていて、特に昼間は滅多に外に出ないこと。
会社にも学校にも行っていないが、家の中で、ミニチュアハウスの中に置くような様々な物を紙粘土で作り、それらを通信販売で売る仕事をしていること。
以前 光が丘に住んでいた人から、光が丘公園にある光のアーチのオブジェのミニチュアを作ってほしいというオーダーを受けたのだが、ネットで見られる写真だけだと わからないところがあって、自分で見にいくしかないと考え、人に会わない夜中に公園にやってきたこと。
ところが、人のいない公園で 光のアーチの写真を撮ったり、スケッチをしているうちに明るくなって、人が公園にやってき始めたので、慌てて土管の中に隠れたこと。
ちゃんと毎日 お仕事に行っている大人の人たちの姿を見ると、胸が詰まって苦しくなるので、外に出られなくて困っていること。

引きこもりのお姉さんは、そんなふうなことをナターシャに話してくれた。
お姉さんは、学校にも会社にも行かない小さな子供だから、ナターシャのことは怖くないらしい。
ナターシャが、誰にも会わずに公園の北側に抜ける道を教えてあげると、引きこもりのお姉さんは とても喜んでくれた。
引きこもりのお姉さんが、
『お礼に、紙粘土で ナターシャちゃんの好きなものを何でも作ってあげる。ナターシャちゃんは何が好き? 犬、猫、鳥、花やケーキでもいいよ。しばらく作ってないけど、アクセサリーもできるよ』
と言ってくれたので、ナターシャは、
『ナターシャは、ナターシャのパパとマーマが大好きダヨ!』
と 答えたのだそうだった。

「引きこもりのお姉ちゃんと、誰にも絶対 内緒だよって約束したから、誰にも絶対 内緒にしてね」
話の合間合間に何度も そう念押しして、ナターシャは、ナターシャに“引きこもり”がどういうものなのかを教えてくれた人の話を、氷河と瞬に語ってくれた。

『ナターシャは、ナターシャのパパとマーマが大好きダヨ!』
と ナターシャが答えたら、引きこもりのお姉さんに、
『人間は、本物か動画を見ないと、ちゃんとしたものは作れない』
と言われたこと。
ナターシャは、動画は撮れないので、
『じゃあ、ナターシャを作って。ナターシャのパパとマーマは、ナターシャのことを大好きなんダヨ! ナターシャのお人形をあげたら、パパとマーマは大喜びダヨ!』
と答えた。
すると、引きこもりのお姉さんは、
『ナターシャちゃんのパパとママが、本当にナターシャちゃんを好きかどうかなんてわからない。口では何とでも言える。親だからって、いざっていう時に子供に助けてくれるとは限らないし』
と反論してきたのだそうだった。

「それで、ナターシャちゃんは、引きこもりのお姉さんに何て言ったの?」
ナターシャに、そんな交友関係があったとは。今日 初めて聞く話である。
それは、瞬には、非常に興味深い交友関係だった。
甘いイチゴにあんこと黒蜜という、歯茎が浮きそうな組み合わせに恐れをなし、視線を脇に逸らしていた氷河も、今は興味津々で、親の知らない娘の お友だち報告に耳を傾けている。
あんこと黒蜜にまみれたイチゴを 慎重に口の中に運び、三種の甘味を じっくり堪能してから やっと、ナターシャは瞬たちに、土管の中での 二人のその後のやりとりを教えてくれた。

「『ナターシャのパパとマーマは、ナターシャのこと大好きダヨ』って、ナターシャは言ったんダヨ。ナターシャのパパとマーマは、毎日 ナターシャにご飯を作ってくれるでショ。それは、ナターシャのパパとマーマが、ナターシャを大好きだからだよって。嫌いだったら、ご飯も作ってくれないヨって、ナターシャは言ったノ。パパとマーマが、ナターシャにご飯を作ってくれるのは、パパやマーマがナターシャを守ってくれてることだよって」
「なるほど、真理だ。ナターシャは本当に賢い」
パパに褒められて、ナターシャは大得意、満面の笑みである。
これが内緒話だということも忘れ、ナターシャは勢いよく元気な声で 内緒話を話し続けた。

「引きこもりのお姉ちゃんは、毎日 自分のお部屋までパパとママに ご飯を運んでもらってるんだって。デモ、これまで一度も パパにもママにも『いただきます』も『ごちそうさま』も『ありがとう』も言ったことがなかったんだって。パパとママは自分を嫌いなんだって思い込んで、もう十何年もパパともママとも口をきいてなかったんだって。毎日 ご飯を作ってくれるパパとママが お姉ちゃんを嫌ってるなんて、そんなことあるはずないのにネ」

「まったくだ。そんなことがあるはずがない」
「でも、そのお姉さんが、ナターシャちゃんに そんなふうに言ったっていうことは、毎日ご飯を作ってくれるパパとママに『ありがとう』や『ごちそうさま』を言うようにしようと思い始めたからなのかもしれないね。ナターシャちゃんのお話を聞いたから」
人生に失敗して引きこもりになった そのお姉さんが、どんな失敗をして引きこもりになったのかは 知りようもないが、その時、彼女の両親は娘の傷心を癒してやることができなかったのだろう。
そして、そのお姉さんは、ナターシャほど賢明でもなかったのだ。
だから、彼女は引きこもりの日々を過ごすことになった。

とはいえ、ナターシャの賢明に甘えることなく、ナターシャのパパとマーマとして、その務めを抜かりなく全うしようと、氷河と瞬は 心に誓ったのである。
賢明なナターシャですら、ワンピースのシミと靴の傷で引きこもりを始めようと考えることがあるのだ。
何が、人の心を折ってしまうのか、余人には(もしかしたら、引きこもる当人にも)推し量れないところがある。

「ナターシャちゃん。もし ナターシャちゃんに何か引きこもりたいような つらいことが起きたら、その時は必ず、僕か氷河に報告してね。今日みたいに、引きこもるよりクリーニング屋さんに行った方がいいこともあると思うから」
「ラジャ!」
力強く 了解の答えを返してから、ナターシャは、最後のイチゴを口の中に放り込み、大満足の笑顔を見せてくれた。

『笑う門には、福 来たる』
笑顔も、良い兆しの一つである。



ナターシャと瞬と氷河が 揃って流れ星を見ることになったのは、それから数日後。
ナターシャのワンピースとボレロが 新品同様に 綺麗になって戻ってきた日の夜だった。

「流れ星っていうのは、神様が天の窓を開けた時に、その窓を通って星が流れる姿なんだよ。だから、その時に 天に お願いをすれば、窓を開けた神様が願いを叶えてくれると言われてるんだ」
流れ星は、良い兆しの最たるものである。
ナターシャは さぞや気負い込んで神様への願い事を願うのだろう。
そう、氷河と瞬は思っていたのだが。

「神様に、お願い……」
ナターシャは、神様への願い事を、咄嗟に思いつけなかったらしかった。
考えてみれば、それも道理。
流れ星に願うまでもなく、ワンピースと靴は綺麗になって戻ってきた。
“上品で可愛い お嬢様”には、自分が努力してなるのでなければ 楽しくないことを、ナターシャは知っている。

そんなナターシャが流れ星に 何を願ったのかを、氷河と瞬は知らない。
ナターシャは教えてくれなかった。
当然、ナターシャの願いが叶ったのかどうかも、氷河と瞬は知らない。

翌日の昼下がり。
引きこもりのお姉さんのお母さんだという人が、光が丘公園のちびっこ広場に、ミニチュアのナターシャ人形を届けに来てくれて、ナターシャは大喜びだった。






Fin.






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