ナターシャが よそ行きに着替えずに王子様と王女様の結婚式が催されている船の上に現れることになったのは、だが、かえってよかったのかもしれない。
白いチュニックタイプのパジャマを着たナターシャの登場に気付いた宴の招待客たちは、ナターシャを天から下りてきた天使だと思い込んだようだった。
そして、神様が王子と王女の結婚を祝福しているのだと喜び、祝福の声を上げ始めたのだ。
残念ながら ナターシャは、彼等の期待に反することを行なう天使だったのだが。

結婚を祝う宴が催されている船内の広間の中央に進み出て、ナターシャは告げたのである。
それが人魚姫の幸福につながると信じて、真実を知ることが 王子の幸福につながると信じて、筋の通ったことが行なわれることが正義だと信じて、高らかに、よく通る声で、
「王子様、王子様。嵐の夜に、船から海に放り出された王子様を命がけで救ったのは、隣りの国の王女様じゃなく、人魚姫ダヨ! 王子様と結婚するのは、人魚姫ダヨ!」
と。

主賓の席に着いていた王子様と隣りの国の王女様は、思いがけない天使の祝辞に ぽかん。
彼等は――祝宴の出席者は誰も――ナターシャの祝辞の意味がわかっていないようだった。
なにしろ彼等は、人魚姫が 元人魚だということを知らないのだ。
だが、ともかく、天使の その言葉が 二人の結婚を祝福するものでないないことだけは感じ取れたらしい。
宴の招待客たちは、ざわざわと さざめき始め、王子様は、わけがわからず戸惑っている 隣りの国の王女様の肩を抱いて 王女様を守る仕草。
「王子様! ほんとのことダヨ! 嵐の海で、命がけで王子様を助けたのは、本当は――」
これでは まるで 自分が王女様をいじめる悪者である。
ナターシャは、王子様の誤解を解くために、なおも必死で言い募ろうとした。

そこに、海底で揺れる海藻のように ふわふわの長い髪をした一人の侍女が駆け寄ってきて、ナターシャの身体を抱え 宴の場から走り出た。
ナターシャは最初、それが人魚姫だとは気付かなかったのである。
人魚姫は、魔法で無理に人魚の尻尾を人間の脚に替えたせいで、一歩 歩くのにもナイフで切り裂かれるような痛みを感じているはず。
その侍女のように、ナターシャを抱いて素早く広間から甲板まで走り抜けるようなことはできないはずなのだ。
その上、その侍女は、祝宴が催されている広間から 誰もいない甲板に出ると、
「本当のことでも、言っちゃ駄目なのよ」
と、ナターシャに“言った”のだ。
人魚姫は、海の魔女に声を奪われたはずなのに。

だが、ナターシャの言葉が本当のことだと知っているのは、海の世界の住人たちしかいない。
そして、海の外にいる海の世界の住人は人魚姫だけ。
では やはり、人魚姫は この侍女なのだ。
彼女の瞳は 海の底の色をしている。
ナターシャは、人魚姫に訴えた。
ナターシャが正しいと信じることを。
ナターシャが 筋が通っていると思うことを。
「嘘はいけないんダヨ。筋が通らないヨ。王子様と結婚するのは人魚姫ダヨ。そうすれば 人魚姫は幸せになれるし、王子様だって……それは 王子様の幸せのためでもあるヨ。おねえちゃんは、おねえちゃんのお姉ちゃんたちに、海の魔女の短剣をもらったんでショ」

絵本では、人魚姫の姉たちが 長く美しい髪と引き換えに海の魔女に貰った短剣を人魚姫に手渡し、それで王子の心臓を突いて殺すようにと、人魚姫に言っていた。
王子の心臓が流した血に 脚を浸すことで、人魚姫は元の人魚の姿に戻れるという海の魔女の言葉を、人魚姫の姉たちは妹に伝えたはずなのだ。
人魚姫が首を横に振る。
そして彼女は、
「あのナイフは すぐに海に捨てたわ」
と告げた。

「お姉さんたちには、『ありがとう』と『ごめんなさい』を言った。でも、私には 王子様を殺すことなんかできない。王子様に生きていてほしくて、あの嵐の夜、私は命がけで王子様を助けたのよ。その私が、自分が生き延びるために 王子様を殺すなんて、そんなの おかしいでしょ」
それでは筋が通らない――と、ナターシャも思った。
だが、人魚姫が幸せになれないのは、もっと筋が通らない。
ナターシャは、なぜ こんな筋の通らないことが起きるのかが わからなかった。
だから マーマは『人魚姫』の絵本を薦めなかったのかもしれないと、ナターシャは ぼんやり思ったのである。

「あの剣を捨てて、今日 死ぬことが決まったら、声が戻ったの。足も もう痛くないの。私は今夜、王子様と王女様のために、お祝いの歌を歌い、舞を舞って、消えるつもりよ」
「でも、王子様を助けたのは、おねえちゃんでショ。王子様がおねえちゃんを好きにならないのは変ダヨ」
「……ええ、本当に変よね。でも、仕方がないわ。私は王子様が大好きだから、王子様に幸せになってほしい」
「でも、おねえちゃんが……」
「王子様が幸せになることが、私の幸せなの。王子様が悲しんだり、苦しんだりする様を、私は見たくない」
「おねえちゃん……」

筋は通らない。
筋は通らないが、大好きな人に幸せになってほしいと願う人魚姫の気持ちは、ナターシャにもわかった。
パパとマーマが幸せでいるためになら、ナターシャも、自分は死んでいいと思うから。
筋は通らないが、その気持ちはわかる。
その気持ちだけはわかる。
わかるけれど―― ナターシャは悲しかった。

「おねえちゃんは すごく男前ダヨ。ナターシャ、惚れちゃいそうだよ」
「えっ」
「ナターシャが王子様だったら、ナターシャは絶対、おねえちゃんをお嫁さんにするヨ」
ナターシャの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
人魚姫は瞳を見開いて、そんなナターシャを見詰め、ナターシャの涙の雫を 白い手の平で受けとめた。
そして、珊瑚の色に微笑んで、
「ナターシャちゃん、ありがとう」
と言い、ナターシャの涙の雫を ナターシャの手に返してきた。

それから 背筋をしゃんと伸ばして、彼女は 王子様と隣りの国の王女様の結婚の宴が催されている広間に戻っていったのである。
大好きな王子様の幸福を願い、祝いの歌を歌い、祝福の舞を舞うために。
素晴らしい歌と舞になるに違いない。
ナターシャは、それを見ることはできなかったが。
魔法使いのおばあちゃんが、いつのまにか、ナターシャを迎えに船の甲板にやってきていたから。






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