「堂々と男をちやほやするんだな。さすが4人に1人がゲイ。そして、4人に3人が、おまえを女性と誤認しているんじゃないか」
瞬がバーカウンターの席に移動すると、氷河は、クイーンズイングリッシュではなく日本語で、英国のエリートたちの品評を始めてくれた。
「奴等には、おまえの価値がわかるんだろう。見る目はあるということだ。あの使い走り会員が言っていたように、ここにいるのは、神に愛される天才アマデウスではないが、凡才ヨーゼフ2世でもない。天才の才能がわかる秀才サリエリの群れということだな」

瞬が 彼等の眼識を どう判断したものかと迷っていたことに、氷河は気付いていたらしい。
氷河の評価を、瞬は受け入れることにした。
つまり、このクラブにいるエリートたちは、瞬が特別な(普通ではない)人間( =聖闘士)だということを感じ取ってはいるのだ。
だから、新参の瞬を、“堂々と”ちやほやする。
無論 それは、重大な任務を抱えた瞬には、迷惑千万なことだったが。

幸い、瞬が 見る目(感じ取る才能)に恵まれたエリートたちに動きを封じられていた間に、氷河が 瞬の分も仕事をしていてくれたらしい。
おそらく、この場で ただ一人、全く 瞬に興味を示さずに、談話室 最奥のテーブルに一人で着いている紳士の上に、氷河は ちらりと視線を投げた。

一見して、70歳前後の いかめしい印象の強い紳士である。
どこかで見たことがあるような気がすると思い――瞬は、すぐに気が付いた。
彼は、かの鉄血宰相ビスマルクの肖像画に似ているのだ。
彼がシドニー子爵ということらしい。
ただ一人、新参の会員に興味を示さない古参のメンバー。
それだけでも、彼の心がどちらを向いているのかが気になるところではある。
視線で氷河に礼を言い、時間が惜しいので、瞬は すぐに行動を開始した。

「はじめまして。シドニー子爵。今日 入会を許された瞬といいます。同席をお許しください。子爵は、最近、ギリシャに土地をお買いになったとか」
星矢も顔負けの単刀直入。
さすがに無礼と感じ、何らかのリアクションがあるだろうと、瞬は それを期待したのだが、シドニー子爵は 瞬にじろりと一瞥をくれたきり、無言だった。

無論、瞬の声が聞こえていないのではない。
その眼球の動きで、瞬の自己紹介になっていない自己紹介を聞いた子爵が、何事かを考え始めたことが、瞬には はっきりとわかった。
子爵は、瞬の無礼より、その発言内容の方に反応を示していた。
『ギリシャに土地を』
シドニー子爵は、中国への対抗心から 闇雲にギリシャの土地を買い漁っていたのではないかもしれない――と、この段になって初めて、瞬は思ったのである。

「現状に変更を加えることはしません。自然を壊すようなこともしません。その土地には、既に我々の建てた施設があり、まさか、その土地が我々のものでないなどとは――迂闊とお思いでしょうが、我々は その可能性を考えてさえいなかったのです。昔から――伝統的に、そこは我々の土地でしたから」
子爵が 瞬を無言で見詰める。
恐ろしく強い眼光。
しかし、その光は、鉄血宰相の瞳の光ではなく、大きな夢を追う少年のそれのようだった。
瞬としては、せめて、『それで?』くらいは言ってほしかったのだが、それは こちらだけの身勝手な期待というものである。
自分の要望を、瞬は はっきりと言葉にして 子爵に告げた。

「その土地を我々に返してください。金額は、言われただけ出します。他の風光明媚なリゾート地や 発掘されていない遺跡の残る島等を、代替の土地としてお渡しする方法でもいい」
新参の若造に、突然、金の話を持ち出されて、シドニー子爵は、瞬の無礼失礼欠礼に立腹していいはずだった。
彼は、新参会員の謎めいた登場にも、説明不要の美貌にも、心を動かされていないようだったし、瞬に腹を立てる権利が彼にはあった。
だが、彼は そうしなかった。
『無礼者!』と叱りつけることはおろか、不快げに眉をひそめることさえ、彼はしなかったのである。

そうする代わりに、灰色の瞳で 瞬をじっと見詰め、それから 彼は、彼のシャツの左袖のカフスを外して、テーブルの上に置いた。
それを指差して、初めて、彼の声を発する。
低いのに、不思議に上擦った――かすれ震えてさえいるような声だった。
「このカフスはサファイヤだ。乙女座の誕生石。これを、手で触れることなく砕いてみせたら、私は 土地の登記書類を無条件で、あなたに譲ろう」

『手で触れることなく』
それはどういう意味なのか。
小宇宙で?
彼は そう言っているのだろうか。
瞬は、彼の身辺に小宇宙を感じることはできなかった。
彼は聖闘士ではない。
瞬は、探りを入れた。

「いい石ですね。3カラットはある。石だけで2000ドルはするでしょう。いいんですか。砕いてしまっても」
「構わん。見たい」
彼は知っているようだった。
アテナの聖闘士の存在と、その力を。
だとしたら――瞬が真っ先に案じたのは、彼がアテナの聖闘士を知っているのは、敵としてなのか、味方としてなのか――ということだった。
シドニー子爵から 強い敵意は感じられないが、だが、だとしたら、なぜ彼は 聖域のある土地を己がものにしようとしたのか。
敵対的買収ではないとしたら、それは どういう行為なのか。
そのあたりの事情が、瞬にはわからなかったのである。

まさか聖域を、中国に奪われまいとした――というのではあるまい。
瞬は子爵の真意を探るべく、もう一度 彼の瞳を覗き込んだのである。
間違いなく、敵意はない。害意もない。
野心も傲慢もなく――あえて言うなら、そこにあるのは、やはり夢を夢見る少年の憧憬の輝きだった。
シドニー子爵を敵とは思えない。
瞬は、そう判断した。

「それは勿体ないので、やめておきましょう。代わりに――」
瞬は、子爵の前にあるロックグラスの中の丸氷にひびを入れ細かく砕いてみせたのである。
一瞬でシャーベット状になった氷を見て、子爵が瞳を見開く。
瞬は声を立てずに氷河を呼び、
「氷を砕いてしまったの。代わりのものを」
と、代わりの酒を頼んだ。
氷河が驚く様子も見せないので、子爵は、氷河がただのバーテンダーではないことを察したらしい。

子爵が察したことを察して、
(あの土地が特別な場所の一画だと)
「知っていて、買ったんですか」
瞬は、子爵に問うたのである。
子爵は、横に首を振り、その後 すぐに 縦に首を振った。
そうして、彼は、彼の人生の方向を決定づけて少年の日の出来事を、瞬と氷河に語ってくれたのである。
それは、輝かしい古き良き時代を舞台にしたジュブナイル小説の幕開けシーンのように、胸躍る物語。
いつまでも きらきらと輝き続ける少年の日の思い出の記憶だった。






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