ナターシャの“お願い”のことを、大人たちは――氷河と星矢と紫龍と蘭子は――それきり忘れていた。
彼等は、それを 叶えてやれる願いとも、叶えてやるべき願いとも思わなかったので、ごく自然に忘れることになったのである。
が、神社の祭事の日が迫り、その準備と打ち合わせのために設けられた町内会の場で、蘭子はナターシャの願い事を思い出すことになった。
町内会の議場で、墨田区のマイナー神社の祭事のために 区外から遠征してきてくれる星の子学園の子供たちに、神社の絵馬をプレゼントして、願い事を書いてもらうイベントを催してはどうかという企画が持ち上がったために。

その企画は採用され、予算の確保も成ったのだが、それでナターシャの願い事を思い出した蘭子は、神社で ナターシャのための絵馬を買い、ナターシャの許に届けてやったのである。
お絵描きが大好きなナターシャのこと。当日、神社で願い事(文章)だけを書くよりは、数日前から イラスト付きの凝った絵馬作成に取り組む方が性に合っているだろうし、喜ぶのではないかと 考えてのことだった。
初めて手にする本物の絵馬。
まだ何も書かれていない まっさらの絵馬を、傑作を作る意欲満々のナターシャは 大喜びで受け取ってくれるはず。
その予定だったのだが。

星の子学園に50枚の絵馬を届けたあとに、蘭子が立ち寄った光が丘のマンション。
そこで 蘭子から絵馬を受け取ったナターシャは、どこか浮かぬ顔だった。
瞬の躾が行き届いているナターシャは、蘭子に、
「どうもアリガトウ」
を言うことは、ちゃんとした。
もちろん、ナターシャは『ありがとう』を忘れない。
だが、その表情も、その瞳も、いつものように明るく輝いていなかったのだ。

「ナターシャちゃん。何か悩み事?」
平日の日中。
瞬は病院に行っている。
氷河は、ナターシャを心から愛しているが、繊細な乙女心を察し気遣う 細やかな神経を持ち合わせてはいない。
蘭子が 氷河には聞こえぬよう 小声で尋ねると、ナターシャは、やっと相談相手が見付かった喜びで気が緩んだのか、今にも泣き出しそうな笑顔を、蘭子に向けてきた。

「あのね。蘭子ママ、あのね。マーマがしょんぼりしてるの。いつもとおんなじに、綺麗で優しくて にこにこしてるんだけど、マーマがしょんぼりするの。パパみたいにイケメンの弟をちょうだいって、ナターシャが言うたび、しょんぼりするの。ナターシャ、神様にお願いするより、マーマに頼んだ方が早いって思って、毎日マーマにお願いしてたんだけど……」
「そ……それは……」

『神様にお願いするより、マーマに頼んだ方が早い』
ナターシャの判断は、決して間違ってはいない。むしろ、極めて正しい。
何事も、神頼みするよりは、人間に協力を仰ぐ方が はるかに現実的であり、合理的であり、前向きでもある。
しかし、“ただの弟”ならともかく、“パパみたいにイケメンの弟”となると、瞬がしょんぼりするのも当然のことなのだ。
よくよく考えてみれば、それは当然のことだった。

遺伝子編集作業により、雄同士、雌同士で子供を誕生させることは、マウスでは既に成功している。雄同士から誕生した子供は、現在の科学力では 長生きさせられないらしいが、同性の親から子供を誕生させること自体は 技術的には もはや不可能なことではないのだ。
しかし、それを人間で試すには、あまりに多くの障害がある。
となれば、現時点で、ナターシャの願いを叶える ほぼ唯一の方法は、氷河が女性との間に子供を儲けることだけなのだ。
ナターシャは、しかし、その事実を知らずにいるらしい。

「それは……瞬ちゃんにも、できないことはあるから……」
絵馬など持ってくるのではなかったと後悔しながら、蘭子はナターシャに その願いを諦めさせようとしたのだが。
「マーマは、世界でいちばん綺麗で強くて優しくて、何でも知ってる お利口マーマダヨ。マーマにできないことはない。マーマは何でも できるんダヨ!」
マーマに対するナターシャの鉄壁の信頼は、蘭子の体重と筋力と圧力をもってしても 打ち砕くことができそうになかった。






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