『問題解決策=自分の助平心の発露』である氷河と違って、蘭子の不都合収拾策は、“理を説き、情に訴えて、ナターシャを説得する”という、地味で地道な――地に足の着いた極めて現実的なものだった。
蘭子が“可愛い女の子同士の秘密の話し合い”と命名したせいで、それは地道ではあっても 普通ではない何かになってしまったが。
光が丘の 氷河と瞬とナターシャの家の子供部屋で、蘭子とナターシャによる“可愛い女の子同士の秘密の話し合い”は始まった。

「ねえ、ナターシャちゃん。ナターシャちゃんは、どうして 弟が欲しいの? そんなに弟が欲しいの?
ナターシャの部屋の家具は どれも小ぶりなので 蘭子には使えない。彼女は、床に敷かれた絨毯の上に胡坐をかいて、ナターシャに尋ねた。
それでも、蘭子の目の位置は、子供用の椅子に座っているナターシャの それより僅かに高いところにある。

「欲しい、欲しい! それで、ナターシャは、マーマがパパを甘やかしてあげてるみたいに、弟を甘やかしてあげるんダヨ! それで、ナターシャは、マーマみたいに 綺麗で強くて優しくて お利口なナターシャになるんダヨ!」
氷河が 事あるごとに ナターシャの前で、『瞬は世界一』という賛辞を繰り返し、毎日のように『瞬のようになれ』と言い、週に一度の割合いで『瞬がいないと、家庭崩壊 間違いなし』と断言し、月に一度の割合いで『瞬がいないと、俺は生きていられない』と主張するせいで、ナターシャの人間としての目標はマーマだった。
マーマのように パパに愛され、必要とされるものになることが、ナターシャの人生の目標なのだ。
ナターシャは、パパが大好きで、いつもパパに愛される自分でいたいから。

ナターシャは、瞬と同じことをすれば、自分も瞬のようになれると思っているようだった。
そのための、“パパみたいにイケメンの弟”であるらしい。
だとしたら、その考えは いったい どこから湧いてきたものなのだろう。
人は普通、憧れの人に近付くために、家族関係や友人関係までを 憧れの人に近付けようとは考えない。
どれほど シンデレラ姫に憧れても、意地悪な継母や姉たちを欲しいとは思わないもの。
蘭子は、胸中で 首をかしげたのである。

「でも、そしたら、瞬ちゃんがいなくなって、その弟のママがナターシャちゃんの新しいマーマになるわけでしょ。それでいいの?」
「エ?」
ナターシャが、大きな瞳を 更に大きく見開く。
ナターシャは“それでいい”わけではないようだった。
ナターシャは、そこまで考えていなかったのだ。
蘭子は、腑に落ちた――半分ほどは 腑に落ちた。

「ナターシャちゃんは、多分、誤解してるわ。世界でいちばん綺麗で強くて優しくて、何でも知ってる お利口マーマの瞬ちゃんにも、できないことはあるのよ。瞬ちゃんは、ナターシャちゃんに弟をあげることはできない。でも、だからこそ、瞬ちゃんは、ナターシャちゃんを とっても大切に思ってるの。ナターシャちゃんを守って、ナターシャちゃんが立派な大人になれるように いろんなことを教えてあげてる。ナターシャちゃんも、それは わかってるわよね?」

「ナ……ナターシャ、他のマーマはいらないヨ。ナターシャのマーマはマーマだけダヨ」
「ええ、そうね。でも、氷河ちゃんが ナターシャちゃんの弟を作ったら、そうはいかないわよ。ナターシャちゃんの弟のママは、その子を氷河ちゃんの家で、自分の手で育てたいと 思うでしょうから、瞬ちゃんを氷河ちゃんの家から追い出しちゃうでしょうね」
「パパは そんなこと許さないヨ! だって、パパはマーマを大好きだもん。パパはマーマがいないと、生きてられないんダヨ……!」

氷河は、瞬への思いを、瞬には伝えず、主にナターシャに(だけ)語っているらしい。
それは照れなのか、のろけなのか、それとも、単なる怠惰なのか。
ともあれ、蘭子は、ナターシャの訴えを、(今は)聞き流した。
「氷河ちゃんは、ナターシャちゃんまで追い出すようなことはしないと思うけど、ナターシャちゃんの弟のママにとって、ナターシャちゃんは継子だから、ナターシャちゃんは、シンデレラ姫や白雪姫みたいに、継母にいじめられることになるかもしれないわね」
「……」

ナターシャの頬は、血の気が失せて 真っ青だった。
「ナ……ナターシャは、パパみたいにイケメンの弟は欲しいけど、弟のママはいらないヨ……」
声だけでなく、肩も小刻みに震えている。
『瞬がいないと、家庭崩壊 間違いなし』とは、こういうことだったのだ。
「弟だけってわけにはいかないわ。弟には、洩れなく 弟のママがついてくるものなのよ」
「デモ、ナターシャは……」

「瞬ちゃんが しょんぼりしてたのは、そのせいよ。ナターシャちゃんが弟を欲しがるってことは、瞬ちゃんはいらないって、ナターシャちゃんに言われたようなものだから」
「ナターシャは そんなこと言ってないヨ……」
「瞬ちゃんは ナターシャちゃんを大好きだから、ナターシャちゃんと別れるのが つらかったのね。でも、仕方がないわ。ナターシャちゃんは、氷河ちゃんに似てるイケメンの弟が欲しいんだから」
「仕方なくなんかないヨ! マーマ!」

ナターシャが マーマを呼んで、掛けていた椅子から立ち上がる。
そこにいるだけで 通せんぼしているような蘭子の脇を 無理に通り抜けて、ナターシャは子供部屋を飛び出した。
マーマが しょんぼりしていたのが、ナターシャに『マーマはいらない』と言われた(と思っている)せいだったとは。
ナターシャは、一刻も早くマーマの誤解を解かなければならなかった。


「マーマ、どこにも行かないで! ずっと、パパとナターシャのおうちにいて!」
「え……」
瞬はキッチンで、“可愛い女の子同士の秘密の話し合い”メンバーに出すお茶とケーキの準備をしているところだった。
その膝に、ナターシャが 飛びつくように しがみついていく。
しがみつかれた瞬は驚いて、ナターシャの 手をそっと解き、彼女の前にしゃがみ込んだのである。
「ナターシャちゃん、どうしたの」
視線の高さを同じにして、瞬がナターシャに尋ねる。
ナターシャは涙をぽろぽろ零しながら、“パパみたいにイケメンな弟が欲しい”事件の黒幕の正体を、瞬に暴露してくれたのだった。

「マーマ、行かないで。ナターシャは弟なんかいらない。ナターシャは、マーマみたいに綺麗で優しくて強くて お利口なナターシャになって、パパに褒めてもらいたくて、そのために弟がいた方がいって思っただけだったの。マーマが強くて優しくて綺麗で お利口なのは全部、駄目駄目パパを 立派なパパにするために パパをシツケてるうちにヤシナわれた美徳だって、星矢ちゃんが ナターシャに教えてくれたんダヨ!」
「星矢の野郎ーっ !! 」

ついに事件の黒幕の正体判明。
ナターシャの自白(?)に 最も早く反応(激怒)したのは、ナターシャに自白された当人の瞬ではなく、それを脇で聞いていた氷河の方だった。
星矢のことだから、彼は 自分がナターシャに そんなことを言った事実を 綺麗さっぱり忘れているに違いない。
それが、氷河の怒りの凍気を更に冷えこませた。

「なぜ、ここに星矢がいない!」
怒りを向ける相手が この場にいないことに怒り、練馬区の気温を北極圏レベルまで下げそうになった氷河を、瞬が、
「氷河。僕は、氷河とナターシャちゃんと、ずっと一緒にいてもいいの?」
と尋ねることで 落ち着かせる。
「も……もちろんだ」
「もちろんだダヨ!」
「よかった」
強くて綺麗で優しくて お利口な瞬は、その一言で、氷河の怒りを鎮めてみせたのだった。

かくして、氷河と瞬とナターシャ(と、実は星矢も)の“パパみたいにイケメンな弟が欲しい”事件は、無事に解決し、決着したのである。
そうして、世界は平和を取り戻した。
とはいえ、次に 氷河と星矢が出会った 神社の祭りの日、星矢は氷河に ぐーで 脳天を直撃されることになったのだが。

ナターシャが神社に奉納した絵馬に描かれたのは、パパとナターシャとマーマが しっかりと手を繋いでいる絵。
ナターシャが絵馬に書いた願い事は、『おとうとは いりません』だった。






Fin.






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