「はじめまして。僕、瞬です。光速で動く指の持ち主に お会いできて嬉しい。よろしく お願いします」 そう言って にっこり笑いかけてくる瞬の瞳が、異様に澄んで美しく、それだけなら幼い子供と同じと思えばいいが、それだけでなく、深く温かく、強い明るさとでもいうべきものを宿していることを認め、氷河は息を吞んだ。 周囲の空気も違う。 案内役の某県某市の職員だけでなく、瞬のマネージャー、グラード手配のコンサート・プロデューサー、ディレクターたちは、瞬の異質に気付いていないのだろうか――。 気付いていないらしいことに 奇異の念を抱き、氷河の無表情は 更に硬くなった。 可愛い顔(だけ)が売りのアイドルピアニストだと侮っていたのだが、瞬が それだけの人間ではないことを、氷河は出会いの瞬間に感じ取ることができたのである。 そのせいで、氷河は、自分の名を名乗ることを忘れてしまった。 名乗らなくても知っているだろうから――と考えて、そのままにしたのは、氷河にしては珍しく、“面倒だから”ではなく、“きまりが悪いと思ったから”だった。 まもなく、氷河は、瞬がピアノの演奏においても、尋常ならざる力を持つ演奏家だという事実を知ることになったのである。 「では、打ち合わせは芸術ホールのミーティングルームの方で」 と、某県某市職員に案内されたリサイタル会場で。 多くの犠牲者を出した津波から数年。 やっと再建成った某県某市芸術ホールの こけら落としのリサイタル。 演奏するのは、国際的な人気を誇る二人の若きピアニスト。 何もかもが対照的だが、共に日本人の血が入り、早くに両親を失った二人。 その上、このデジタル全盛の世の中で、アナログなポスター販売で驚異の売り上げ。 話題性抜群の二人の某県某市入りには、某県ローカル放送だけでなく、複数の在京キー局もカメラを入れていた。 二人が再建成った芸術ホールに入るところから、テレビカメラが回り始める。 芸術ホールのエントランスの中央に、一度は海に流されたピアノが展示されていた。 最初にコンサートホールが建てられた時から 錚々たる名ピアニストが演奏してきたピアノだという説明プレートが付されている。 「海水につかって……懸命に修理し、調律したのですが、音が狂って、音の出ない鍵盤もあります。何もかもが新しくなった このホールに、あの惨事を忘れないようにと残しておくことにしたんです。忘れてしまいたい住人たちからの 反対もあったんですけどね。結局、『忘れたくない』、『忘れてはならない』という住民の方が多かった。思い出のピアノ、形見のピアノですからね」 案内役の某県某市の職員が 遣る瀬ない笑みを浮かべて、二人のピアニストに説明する。 40代半ばの男性職員は、もしかしたら数年前の災害で親しい人を失ったのかもしれなかった。 母を海に奪われた氷河としては、彼の気持ちが痛いほどにわかって、つらかったのである。 泣いても どうにもならないことも知っていたので、無言でいたが。 「触ってもいいですか」 「あ、はい。もう……演奏には使えない。楽器ではなく、記念碑ですから、どうぞ」 瞬に尋ねられた案内役の職員が グランドピアノの蓋を開ける。 一度は 泥にまみれて鍵盤を懸命に拭き取ったのだろう。 展示されているピアノは、その苦労の跡が見てとれる姿をしていた。 瞬が、端から すべての鍵盤を叩いてみる。 ほぼすべての音が狂っていた。 88ある鍵盤のうち、12個の鍵盤の音が出ない。 「これは確かに、『ぶんぶんぶん』も弾けないな」 低い声で、つい 氷河は呻いてしまったのである。 氷河の呻きが終わらないうちに、瞬は曲を弾き出した。 メンデルスゾーンの『春の歌』。 「なに……」 嘆きの呻きが、違う何かになる。 音の出ない鍵盤が12もあるのである。 ほとんど すべての音が狂っているのである。 だが、そのピアノは、確かに温かな春の歌を歌っていた。 氷河は呆然。 氷河だけでなく、案内役の職員も、瞬や氷河のマネージャーも、コンサート・プロデューサーも、ディレクターも、各種メディアの関係者も皆、奇跡を見る思いで――奇跡を聞く思いで――その場に立ち尽くすことになった――。 なぜ そんなことができるのか――。 氷河が 指の運びを見ると、瞬は、音の出ない鍵盤の音は 他の鍵盤を複数同時に弾くことで、その音を作っていた。 指が10本しかない人間には 到底不可能な芸当だが、音の余韻を利用して、瞬はそれを成し遂げていた。 演奏時間が3分に満たない小品だから可能だったのだとしても――3分に満たない長い時間、再建成った芸術ホールのエントランスは確かに奇跡の中にあった。 「このピアノは生きていますよ」 瞬の言葉に感極まったように、案内役の男性職員が瞬の手を取る。 そうして彼は、声を押し殺して泣き出してしまった。 複数のテレビカメラが、二人の姿にフォーカスし――これは確かに、記録しておくべき場面だと、氷河は思ったのである。 それは、突然降りかかった災害に苦しみ、悲しみ、傷付き、空しさと無力感に負けそうになっている人々に、『あなたは生きている。あなたには生きる価値がある』と励まし、力付ける奇跡の場面だった。 そして、氷河は、可愛い(だけ)が売りのアイドルピアニストと思っていた瞬が、実は技巧面でも 自分より上なのではないかと 疑うことになったのである。 否、氷河は、ほぼ確信していた。 瞬は、超絶技巧派ピアニストと言われている自分より高度な技術を有している――と。 それでも万が一ということがある。 氷河は、『ふるさと』と『埴生の宿』を弾きたいという瞬に、 「プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番を、俺が文句を言えないレベルに弾きこなしてみせたら、弾いてもいい」 と条件付きの許諾を与えて、瞬の技術レベルを確かめてみることにしたのである。 瞬は、頬を紅潮させて、 「頑張ります!」 と応じ、練習室のピアノに向き合った。 |