「ちょっと待ってよ! ここが地球だって決めつけていいの !? 」 「え?」 瞼を伏せていた瞬が、驚いたように顔をあげ、絵梨衣を見る。氷河は眉をひそめ、嫌そうな視線を絵梨衣に向けた。 「地球じゃなかったら、どこなんだよ」 「どこ…って、異世界よ!」 ためらいながらもきっぱりと告げた絵梨衣の上に、吐き出すような氷河の声が降ってくる。 「異世界だぁー!? SFの読みすぎだぜ。おまえ、いったいどこからそんな発想が出てくるんだよ!」 「しっ…失礼ねっ! ファンタジーって言ってくれない?」 「やっぱ読んでんだ。そーゆー荒唐無稽な話」 あからさまに軽蔑の目を向けられて、絵梨衣はカチンときた。聖和の秀才だろうが、アイドル歌手だろうが、言いたいことを言わせてはおけないと、絵梨衣が眉をつりあげた時、 「氷河が夕べ読んでた超古代史の謎が云々ってのは荒唐無稽じゃないの? 宇宙人が人類に文明を伝えただの、イエス・キリストは宇宙人だっただの、アトランティスには核兵器があっただのって」 瞬がからかうように言って、氷河の背中を軽く小突いた。 氷河が少しばかり気まずそうな顔になり、唇をとがらせる。 「あれは――あれは、ちゃんとした科学者が提唱してるんだぞ。カール・セーガンとかバリー・ダウニングとか」 「宇宙人か異世界人かの違いしかないと思うけど」 「その違いが重要なんだ! おまえ、ほんとに女に甘いぞ」 ふてくさった氷河の横顔を見て、瞬が肩をすくめる。瞬の助勢に力づけられて、絵梨衣は"ここは異世界"説を力説した。 「あの地震、変だったもん。そんな大した揺れじゃないのに、身体、重くなって。それに、この森、見たことない木ばっかりじゃない」 「ばら目まめ科アカシア属想思樹、別名タイワンアカシア――が五割を占めてる。あそこにあるのなんか、パンの木だろ。南に行きゃ、ありふれた木だ。おまえ、銀杏や欅くらいしか、木、知らないんじゃないのか」 「松や杉だって知ってるわよっ」 「すげー。物知りー」 目一杯侮蔑的に異世界説を否定され、絵梨衣の中には再び氷河への怒りが湧き起こってきた。その外見に惑わされ、この傍若無人男にきゃーきゃー言っているクラスメイトたちに、城戸氷河の正体をばらしてやりたいと、痛切に思う。瞬が二人の間に入ってきて、話題転換を図ってくれなかったら、絵梨衣は氷河に手をあげてしまっていたかもしれなかった。 「でも、パンの木があるなら、果物の木もあるかもしれないね。そうすれば、水の心配はしなくても済む」 「あったとしても、食って大丈夫かな」 瞬の提案を聞いた氷河が、腰をあげる。Gパンについた草と埃を手で払い、彼は森の中に分け入っていった。 その後ろ姿が木々の間に見えなくなると、瞬が絵梨衣に小声で話しかけてきた。 「氷河は君を不安にさせたくなくて、わざと憎まれ口を叩いてるの。気に障ったらごめんね」 「わざとー!? あれが、わざとだって言うのっ? 生まれつき口が悪くて、言いたいこと言ってるだけとしか思えないわよっ」 親友を庇うために、瞬は事実を曲げてそんなことを言うのだと、絵梨衣は思った。そうでないなら、瞬は、あまりに好意的に自分の親友を誤解しているのだ、と。 だが、瞬は瞬で、自分の見解に絶対の自信を抱いているらしい。 「わざと、だよ。意識して言ってるの。もちろん、自分の不安を紛らすためもあるだろうけど、九割方は君と僕のため」 そこまで言われても、絵梨衣は半信半疑だった。氷河や瞬が絵梨衣の学校の女子に人気があるのは、その外見と頭の良さに因るものである。少なくとも氷河は、人格高潔だから人気があるわけではない。瞬の方は外見に似合って優しく気のまわるタイプらしかったが、あまり優しいとそれも信じられない――というのが、絵梨衣の本音だった。 (これって、モテない女のひがみかな…) 絵梨衣が自己嫌悪に陥りかけた時、森の奥の方から氷河の声が響いてきた。 「瞬ーっ! ちょっと来いよーっ」 瞬が、そして瞬の後を追って絵梨衣が、氷河の許に駆けつけると、彼は、高さが15メートルはありそうな太い木の根元に立って、上を見上げていた。 「どうしたの?」 瞬が尋ねると、氷河が高木の幹から四方に広がっている枝を指し示す。 「あれさー、林檎に見えねーか?」 絵梨衣たちの見上げたそこには、赤い実がたわわに実っていた。 「林檎にしちゃ背の高い木だね。氷河でも届かないくらい」 「ああ」 普通の林檎の木がどれほどの高さをもっているものなのかを、絵梨衣は知らなかった。瞬にきいてみようかとも思ったが、それでまた氷河に馬鹿にされるのも癪だったので、絵梨衣はそのまま言葉を飲み込んだ。 「氷河、僕をおんぶしてくれる?」 「肩車してやるよ」 その場にしゃがみこんで、氷河は瞬に肩に乗るように促した。 「僕、重いよ」 「あの女よりは軽いだろ」 いくら体格に差があるとはいえ、同い年の男の子同士で肩車などできるのだろうか。絵梨衣は氷河の憎まれ口を聞き流して、二人を見守っていたのだが、氷河は本当に瞬を肩に乗せて、ぐらつくこともなくしっかり立ち上がってしまった。 「なに言ってるの。彼女より僕の方が10センチは背が高いのに」 「7、8センチだ。どさくさ紛れにサバを読むな」 氷河の突っ込みに口をとがらせながらも、瞬は手を伸ばして、その赤い実を5、6個もぎ取った。氷河の肩から降りがてら、その一つにかぷりと歯を立てる。 「おい、俺にも」 氷河が手を伸ばすと、瞬は左右に首を振った。 「だめ。あと少し待って。僕が平気だったらね」 「瞬っ!」 瞬の側に駆け寄ろうとしていた絵梨衣が、氷河の怒鳴り声にびくっと身体をすくめる。 氷河は悪鬼のごとき形相で、小柄な親友を睨みつけていた。 「そーゆーことはなっ! 俺みたいに死んでも死なないような奴にやらせりゃいいんだよ!」 「死んでも死なないような人間が毒味しても、死ななかったから大丈夫とは言えないよ、普通」 「俺が言いたいのはそういうことじゃないっ!」 激昂している氷河に比して、瞬は相変わらず柔らかな口調である。 「大丈夫だよ。ほんとに万が一のこと考えただけで、毒なんかじゃないよ。かなり酸っぱいけど、林檎の味がした。林檎だよ」 「……」 氷河のこめかみが引きつっている。ついさっきまで憎まれ口を叩いていた時とは桁違いに険しい目をしていた。絵梨衣は凄味をさえ感じたのである。 「当たり前だっ! ここは地球なんだから、そうそう訳のわからないもんが転がってるはずがないっ!」 吐き出すように言って、氷河は瞬に背を向け、大股で元いた場所に戻っていった。 絵梨衣が、慌てて後を追う。 木々が途切れ、そこだけぽっかりと5メートル四方の平地になっているその中央に、氷河は座り込んでいた。絵梨衣の姿に気付くと、じろりと横目で睨み、それから、彼は肩から力を抜いた。 「――わかってるだろうな。俺に対してさえああなんだから、瞬はおまえなんかにはもっと優しくするぞ。瞬は、女は女だってだけで親切にしてやらなきゃならないと思ってるんだ。だからってつけあがるんじゃねーぞ」 「つけあがったりなんかしないわよっ!」 「そのセリフ、忘れるなよ!」 怒鳴っている氷河の声には、だが、まるで覇気がない。その様子は、絵梨衣の目に、落ち込んでいるようにも見えた。 「瞬は……自己卑下が激しいんだ。だから、あんなことを当たり前みたいに言う…」 「自己卑下…?」 絵梨衣は、氷河の言うことが理解できなかった。 瞬はとても綺麗だ。男らしい外見とは言い難いが、絵梨衣の学校の女子には人気があったし、成績でクラス編成をする聖和高校で、常時トップの氷河と共にAクラスに在籍しているとも聞いている。いい家の子なのだという噂も、絵梨衣の耳には入ってきていた。絵梨衣に対してそうであるように、他の誰にも優しいのだろうし、他人に優しくできるのは、自分に余裕があるからではないのか。 その瞬に自己卑下などというものに陥られてしまったら、絵梨衣など生きている価値もないことになってしまう。何が原因で瞬が自己卑下などしなければならないのかは知らないが、絵梨衣にしてみれば、それは、贅沢な"感情"としか思えなかった。 だが、ただ一つ、絵梨衣にわかったことがあった。 つまり、こんな訳のわからないところに放り出されても、氷河と瞬がさして恐慌をきたしていないのは、彼らが二人だからなのだ――ということ。自分のことを理解し案じてくれる親友が側にいてくれるから、彼らは自分のように取り乱さず落ち着いていられるのだ、――と。 (私だけ…一人なんだ……) そう思った途端、初めて絵梨衣の目から涙が零れ落ちた。涙を氷河に見られるのが悔しくて、絵梨衣はその場に座り込み、両手で抱えた膝に額を押しつけた。まだほんの数時間しか離れていない家が、無性に懐かしい。小言が癖になっている母親、その母親に首根っこを押さえつけられている父親、生意気でテレビゲームばかりしている弟、あまり有意義とも思えない噂話ばかりしているクラスメイトたちにまで、今すぐ会いたいという気持ちが抑えようもなく湧き起こってきて、絵梨衣は唇を噛みしめた。 「氷河っ!」 少ししてからその場に戻ってきた瞬が、責めるように氷河の名を呼んだのは、背を丸めて泣いている絵梨衣の姿を認めたからだったらしい。氷河が、瞬の誤解を察して、怒鳴り声をあげる。 「俺は何も言ってない!」 「何か言ってあげるべきでしょっ!」 「何を言ったって気休めだよ! ここは、こいつの期待通り異世界で、もうすぐドラゴンだの魔王だのが出てくるから楽しみにしてろとでも言ってやればいいのか !? 」 「氷河…」 先に折れたのは、瞬の方だった。 「今度何か食べる時は氷河に相談するから」 なだめるような口調の瞬から、氷河がついと視線を逸らす。 「おまえはいつも口ばっかりだ」 「……」 氷河にそんなふうに言われることに、瞬は慣れていなかったらしい。傷付いたように目を伏せてしまった瞬を見て、今度は氷河の方が慌てふためく。瞬の側に歩み寄りその顔を覗き込んで、彼は詫びを入れ始めた。 「す…すまん、拗ねるつもりじゃなかった。瞬……怒った…か?」 でかい図体をして、恐る恐るお伺いを立てる風情の氷河は、絵梨衣の目に、どこか滑稽に映った。情けないやら可愛いやらで、笑いがこみ上げてくる。 「…ごめんなさい」 瞬が謝ると、氷河は大きく肩で息をした。瞬に許してもらえて安心した――らしい。 そんな二人を見て、絵梨衣は、彼らに関するもう一つの噂を思い出したのである。無責任極まりない噂だと思って、これまで真面目にとりあったことはなかったが、その噂というのは、つまり、二人が"ホモ"なのではないか――というものだった。 高嶺の花同士がいつも一緒にいるのだから、半分はやっかみで、もう半分は女の子の間で互いに牽制するために流布されている噂なのだと、絵梨衣は思っていたのだが、こうしてじかに二人に接してみると、噂の原因がそれだけではないことが如実に感じとれる。瞬の顔だちや、高三男子にしては当たりの柔らかい雰囲気のせいもあるだろうが、それより何より瞬に対する氷河の態度そのものがアヤシイのだ。 それは、『あの噂に信憑性がないことはないのかもしれない』程度の疑惑を抱かせるには十分なほどにアヤシイ代物だった。 |