「わあ、雪代くん、かわいー。スコットランドの妖精みたい」
 食堂で、再び三人が一同に会した時、絵梨衣は上機嫌だった。それはそうだろう。
 白い絹の長衣に、青い宝石を埋めこんだ腕輪、髪には繊細な金細工の髪飾り――これで浮かれない女の子はまずいない。
「城戸くんも、変な恰好してんのにカッコいー。スタイルいいと得ねー」
 氷河を褒めるくらいなのだから、その上機嫌のほども知れるというものである。
「絵梨衣さんこそ綺麗ですね。お姫様みたいだ」
「へへー。ありがと」
 嬉しそうに笑って舌を出す絵梨衣を見て、氷河は皮肉に顔を歪めてみせた。
「瞬に綺麗だって言われて喜べる奴の気がしれないぜ。…おまえ、不安じゃないのかよ」
「えー。だって、ここの王様が私たちをここに運んだんでしょ。当然、元に戻すこともできるはずだし、心配することないじゃない」
「戻った先が10数年で滅亡するって言われたんだぞ」
「お風呂で考えたんだけど、私、それでも帰りたいって思った。その先のことは、帰ってから考える!」
「……」
 きっぱりした絵梨衣の答えに、氷河は少しだけひるんだ。
 そうなのである。それでも帰りたいと、帰らなければならないと、氷河も思っていたのだ。
 破滅を恐れないわけではないし、死ぬのが恐くないわけでもない。それでも帰らなければならないし、帰るのが当然のことだとも感じる。見知らぬ世界で生を全うしたいと考えるほど、氷河は自分の生きていた世界に絶望してはいなかった。
「――そうだな。元の世界に帰る術はあるわけだ。とりあえず、俺たちが蛇でもマムシでもないと、あいつらにわからせることが先決だな」
 彼らが案内された食堂では、長方形の大テーブルに、あきれるほど豊かな料理や飲み物が並べられていた。
「でも、蛇って何だと思う? やっぱり宇宙人なのかな?」
 絵梨衣が、大麦でできたパンとハムを同時に口に放り込む。"お姫様"らしい行儀とは言い難かった。
「蛇や龍ってのは水の神だ。古代文明圏の大抵の祖神や至上神、暴風雨神は蛇か龍なんだ。アッカドの母神ティアマト、バビロニアの最高神マルドゥーク、ユダヤやキリスト教世界のルシファーだって、蛇の姿で表されてる。ある時期に全世界を同時に襲った災害が"のたうつ蛇の形"だったから――というのが、一般的な説だろうな」
「古代文明はほとんどが大河の側で興ってるから、氾濫や洪水も多かったろうしね」
 だが、この宮殿を造った蛇は"一般的な説"では説明しきれない。それは氷河にもわかっていた。
「でもさ…」
 給仕をしてくれている女たちをはばかって、絵梨衣は声をひそめた。
「この国、潰滅的に滅びちゃうんでしょ? 万能翻訳機だの、あの円盤みたいな船だのって、私たちの時代まで伝わってないんだもの」
「断言はできない。王だけが蛇の"仕組み"を動かせると言っていたからな。権力を維持するために、特権階級の人間が特別の知識を専有しようとするのはよくあることだ。そいつがその知識を誰かに伝える前に死んでしまえば、それでその文明は一巻の終わりということになる」
「なんか姑息ね、それって」
 マドレーヌのような甘味をもったお菓子が気に入って、絵梨衣はそれを2、3個立て続けにつまんだ。
「どっちにしても、過去より異世界の方がまだ納得できる。紀元前4000年だ? ありえない。非科学的の極みだ。あの万能翻訳機だって、絶対不可能なはずなんだ」
「ありえないって言ったって実際あるんだもの、不可能じゃないんでしょ」
「…単純でいいな、おまえは」
 氷河が手近にあったグラスを、口許に運ぶ。中身は麦酒だった。
「単純って何よ! 城戸くん、教科書の読み過ぎで、アタマ堅くなってるんじゃないの?」
 上々だった絵梨衣の機嫌が斜めに傾きかけたのを見てとって、さりげなく瞬が取りなしにかかる。
「ヘルツはラジオなんてものできっこないって言ってたし、ニューカムは空気より重い物が空を飛ぶことはできないって断言してたし、ボーアだって、原子力の実際的利用の実現を否定してたよ。オーギュスト・コントなんか、天体の化学的構成の研究は人間には無理だって言ってたんだ。それぞれの時代で、世界最高の頭脳を持っていた人たちがだよ。多分、不可能なことじゃないんだよ。僕たちは、その理論をまだ見付けてないだけなんだと思う」
「…ん、そうかもな…」
 瞬は絵梨衣を庇うつもりでそう言ったのだが、絵梨衣はかえってそれで腹を立ててしまったのである。もっとも、彼女の立腹の対象は瞬ではなく氷河だったが。
「なによ、それ! 今、同じこと言ったのよ、私と雪代くん。私の言うことは最初っから馬鹿にしてるくせに、雪代くんの言うことだとすぐ納得するわけ!?」
 口からお菓子を飛ばしかねない勢いの絵梨衣に、しかし、氷河は全く動じなかった。
「おまえだってそうだろーが」
「そ…そりゃあ……それが普通でしょ。私だって雪代くんの言うことなら素直に聞けるもの」
「ほらみろ」
 勝ち誇って冷笑を浮かべる氷河を、絵梨衣は憎々しげに睨みつけた。
「――でもさ、雪代くんならわかるし、雪代くんらしいとも思うけど、なんでまた城戸くんが弁護士になろうなんて似合わないこと考えたわけ? 検事や判事向きでしょ、どう考えても。やっぱ、お金、稼ぎたいから? 公務員も最近は儲かるらしいわよ。安定してて不況知らずの上に、賄賂ががっぽがっぽ」
 絵梨衣の皮肉に、氷河は意外や真顔で答えた。
「ふん。俺はあんまり良質な人間じゃないからな。だから逆に、どんなクズ野郎でも弁護できるだろうと思ったんだよ」
「あ……」
 次のお菓子に伸ばしかけていた手を、なぜか急に気まずさを覚えて、絵梨衣はすっと引いた。
 彼女は思い出したのである。この二人は自分などよりはるかに恵まれた資質の持ち主で、恵まれた環境の中、地に足をつけて、どんな将来を夢見ることもできる人種なのだということを。何かしたいことがあるわけでもなく、将来就きたい仕事があるわけでもなく、なんとなく学校に行き、なんとなく卒業し、なるようになって適当に結婚するのかなー――という絵梨衣とは、全く次元が違うのである。
 たとえここで氷河に、『将来政治家か官僚になって、政治献金や賄賂を誰彼構わず絞りとり、自由が丘か田園調布辺りに大邸宅を構えるのが、俺の夢だ』と言われても、絵梨衣は彼を尊敬していたかもしれない。そんな低次元な夢すら、絵梨衣の中には存在しなかったのだから。
 宝石に飾られて喜んでいた自分が、まるで孔雀の羽をつけて悦に入っていた滑稽な烏のように思えてきて、絵梨衣は意気消沈した。







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