氷河は、ジウスドラが船を造って遊んでいるというムスタバルの話を思いだした。シュメールの滅びの日が近付いてくることに絶望している父とは対照的に、ジウスドラは、蛇の力に頼らずに生き抜く方法を模索していたのだと、氷河は知った。
(シュメール版ノアの方舟というわけだ。いや、ノアよりこっちの方が古いのか…)
 見れば、ムスタバルはほとんど自失して宙を見詰めている。それも当然のことだったろう。彼が手に入れた王国は、あと10日もすれば地上から消えてしまう、幻の王国だったのだから。
 ウルカギナ王が、息子ジウスドラに告げたことを、ムスタバルに告げずにいたのはなぜだったのだろう。弟の弱さを見抜き、彼を絶望から救うためだったのか、ジウスドラの若さと強さに期待していたからだったのか――今となっては知る術もないことである。
 いずれにしても、シュメールはこれで完全に滅び去るわけではない。少なくとも少数のシュメール人は生き残り、復興を遂げる。氷河たちの知っている歴史ではそうなっていた。
「ともかく、この洪水であなた方を死なせるわけにはいきません。あなた方を元の世界に戻すのが、僕の仕事です。――瞬さん」
 ジウスドラは瞬の名を呼び、それからぺこりと頭を下げた。
「父を許して下さい。蛇を呼ぼうと叔父が提案してきた時、父は、もしかしたら…と思ったんです。蛇になら未来を変えることができるのかもしれない…と。蛇が教えてくれた未来なのだから、蛇になら変えることも可能なのかもしれないと、そう思ってしまったんです。未来を変えるのは自分なのだと考えることもできないほど、父は蛇を崇めていたんです。それでいながら父は、王としてあまりに無様な自分を蛇の前にさらすことを恐れて…あなた方の中に本当に蛇がいるのかどうかを確かめることすらできなかった…」
 瞬がジウスドラに笑いかける。
「わかってるよ。僕、君のお父さんを恨んだりしていない。君のお父さんだからね」
「ありがとうございます」
 再度頭を下げようとしたジウスドラを、瞬は止めた。それから瞬は、ジッグラトの階段を登り、ムスタバルの前に立った。
「…ムスタバルさん。あなた、あなたを憎むまいとしているジウスドラくんの気持ちに応えてあげられますよね? そんなこともできないほど、あなたは馬鹿じゃありませんよね? お兄さんのしようとしたことを引き継ぐのがあなたの仕事だと、僕、思います。洪水のこと、皆に教えてあげてください。多分、洪水はほんとに起こると思います。僕たちの時代にまで、洪水の伝説は伝わっていますから。そんな役に立たない球、いつまでも後生大事に握ってないで」
 ムスタバルの手から球を奪い取り、励ますように瞬はムスタバルに言った。

「……人がいいのね、雪代くんって。あんな奴、放っておけばいいのに」
「……」
 絵梨衣の呟きに、氷河は胸中で頷いていた。が、口には出さなかった。
 そういうところが、氷河には及びもつかない瞬の優しさなのだ。それを否定する気にはなれない。
 瞬は、7つの球を供物台の穿孔に1つずつ置いてから、階段を降りてきた。その後に肩を落としたムスタバルが続く。
 その時、だった。
 突然、ジッグラトの上の祭壇が、供物台ごと音もなくスライドし、ぽっかりと地下への入口を示したのである。地下に続く階段の下方には、白い光が満ちている。
「そんな馬鹿なこと!」
 ありうべからざる事態に驚いて、ジウスドラがジッグラトの階段を駆け登る。
 彼自身父から話を聞いたことがあるだけで、実際に入ったことのない蛇の部屋への入口が、祭壇の前に四角い口を開けていた。
「しゅ…瞬さん、どうやって…どうやって開けたんです!?」
 ジウスドラの声は震えている。だが、この事態に驚いていたのは、ジウスドラよりむしろ瞬の方だった。
「僕…氷河の西暦の誕生日の順に球を入れただけだよ。僕の誕生日は9月9日で数字が重なるけど、氷河の誕生日はゼロが入らなくて、7つの数字がユニークだから…」
「日を選ばずにオールマイティの順番があったのかな…? それとも本当に瞬さんが…」
 蛇なのか?――という言葉を、ジウスドラは飲み込んだ。なぜかそれは言ってはいけないことのような気がした。
「中を見ますか? さっき僕が言ったものしかありませんけど」
 言いかけた言葉を濁すために、ジウスドラは瞬にそう尋ねた。
 瞬が氷河の方を見る。
 氷河は堅い表情で首を横に振った。
「…未来なんてもの、見てどうなる。それは、俺たちがこれから作るものだし、きっと変えられるものだ」
「ん…。うん、そうだね」
 瞬は氷河の言葉に頷いて、ジッグラトの階段を駆け降り、氷河の側に戻った。
 瞬たちの世界はあと十数年で滅び去ると、ムスタバルは言っていた。そんな未来を見せられて、ウルカギナ王と同じ轍を踏むことはない、と氷河は言っているのだ。瞬も、それは同感だった。

「…あなた方が羨ましいです」
 氷河と絵梨衣の許に戻った瞬を、ジウスドラが心底羨ましそうに見やる。同じ気持ちを、彼は父に持ってほしかったのだろう。
 ジウスドラは、過去と、そして父の弱さを振り切るように、蛇の部屋への入口に背を向けた。
「瞬さんたち、ここに着いた時に着ていた服に着替えた方がいいですね。今日はもう暗くなりかけてますから、明日、早朝に出発しましょう」
「え…? 蛇の仕組みを使って、私たちを元の世界に戻してくれるんでしょ? 出発…って、どこに行くわけ?」
 訳がわからず問い返した絵梨衣に、ジウスドラは短く答えた。

「あなた方が着いた島、ディルムンへ」







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