ディルムンの森は、絵梨衣たちがこの島に着いた時より小さくなっていた。
 あの林檎の木が、森の端で、根を半分露呈して枯れかけている。
「ここがエデンの園なら、これが善悪を知る木ってわけだ。おい、相沢。おまえ、この実食って、少しは利口になったのか?」
 氷河が、ちらりと瞬に一瞥をくれてから、絵梨衣をからかうように言う。
 まるで夫婦喧嘩の最中に、奥さんの機嫌を窺いながら子供を相手にしている"お父さん"のようだと、絵梨衣は思った。

 森のすぐ横につけた有翼円盤の翼が、林檎の木に影を落としている。乾燥化の進むこの島も、この森も、この木も、間もなくすべてが水に押し流されてしまうのかと思うと、絵梨衣は不可思議な切なさを覚えた。見知らぬ世界に投げ出されて恐慌をきたしかけ、氷河に馬鹿にされて意地になって怒鳴り返していたのは、ほんの数日前のことだったというのに、それが既に懐かしさを伴う思い出になっていることに、絵梨衣は驚いていた。


「以前は、島全体が緑だったのだそうです、ここも。この森の中に蛇が初めてこの島に降り立った場所があって、そこに蛇の力の源があるはずなんです」
「はずなんです…って、君、知ってるわけじゃないの?」
 目一杯不安になって、絵梨衣はジウスドラを見降ろした。が、ジウスドラは平然としている。
「場所は知っていますが、おいそれと近付くことのできない聖地なんです。すべての蛇の仕組みは――僕たちの乗ってきた船も宮殿内の設備も、ここから送られる力を受けて稼働するのだそうです。だから、近付く必要もなかった。蛇が天にいる神に民の願いを伝える場所が、ここなんです」
「でも、町があったわよ。廃墟になってたけど」
「あそこは蛇が我々の許を去ってからできた町です。この島からは銀や銅が産出されるので、その仕事に携わっていた者たちが作ったんです。でも、数百年前に蛇の船が――僕たちが乗ってきたものと同じ船が、あの町に墜落する事故が起きて、その事故を聖地を汚した罰だと思った住人たちは、あの町を放棄したのだそうです」
「へーえ、そんなことで。もったいない」
 そういえば、あの廃墟に捨て去られていた機械の中には、絵梨衣たちの乗ってきた有翼円盤に取り付けられているパネルと同じようなものもあった。"そんなことで"町を一つ捨ててしまえるほど、シュメールの人々は蛇を畏れ敬い続けてきたのだろう。蛇の正体が宇宙人なのか未来人なのか、あるいは異世界人なのかと考え、答えを求めてしまう自分たちより、蛇は神の使いだと信じてしまえるシュメールの人々の方が、苦難を乗り越える力も大きいのではないかと、絵梨衣は思った。

「え…と、で、ジウスドラくん? 蛇の仕組みの動かし方はパパから聞いてるの?」
 ジウスドラの案内で、一行は森の中に踏み入った。
 瞬は相変わらず無言で、氷河は気遣わしげにちらちらと瞬を窺い見ているだけである。気まずさを振り払うために、必死で絵梨衣は喋り続けた。
「いいえ。でも、蛇の石がありますから。この石は万能なのだそうです」
 首に掛けている銀のチェーンにぶらさがっていた指輪を、ジウスドラが手の平に乗せて示す。
「あら、珍し。ラピスラズリじゃない石がついてる。ここ来て初めて見た」
 プラチナのリングに乗っている小さな石は、透き通った青い石――サファイア――だった。意外そうな顔をする絵梨衣に、ジウスドラはネックチェーンごと外してそれを見せてくれた。
「指輪の内側に文字が刻まれているんです。蛇の国の文字だそうです」
「へー。蛇の国の?」
 言われてリングの内側に目をやった絵梨衣は、そこに刻まれている文字を見て、息を飲んだ。
 それは、絵梨衣でも読める英語だった。

"WITH LOVE"

(これ、エンゲージ・リングじゃない!)
"WITH"の前に"Y"と"A"の文字が微かに見て取れる。前後の文字はすり減っていて読み取れなかったが、それは間違いなくエンゲージ・リングだった。リングのサイズから察するに、男性から女性への。
(あ、でも、雪代くんの指なら入りそう)
 ――そう思ってしまったのは、なぜだったろう。"FROM HYOGA WITH LOVE"で、パズルはすっきり埋まる。すっきり埋まりはしたが、絵梨衣はまるですっきりしなかった。頭に血が登り、急に心臓が強く波打ちだす。とにかくこの思いつきは口にしてはいけないことだと、絵梨衣にできた判断はそれだけだった。
 "YA"の文字は、"HYOGA"ではなく、"TETSUYA"か"TAKUYA"の"YA"かもしれず、あるいは、"TO AYA"とか"TO MAYA"、もしくは日本人以外の名かもしれない――と、絵梨衣は無理に自分に言い聞かせた。







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