僕は結局、基臣氏に促されるままベンツに乗り、高生加家へと運ばれた。その間、一言も声を発せずにいた僕に、基臣氏は何も尋ねようとはしなかった。 高生加家に着くと、客間に通された。あのなまなましい思い出のある客間ではなく、庭の見えない別の客間に。 僕と基臣氏の間にあるテーブルにティーカップを置いて家政婦長さんが客間を出ていくと、僕は初めて口を開いた。 「氷河の好きな人のこと、教えてください」 「知ってどうする?」 「その人に、氷河のものになってくれるように頼みます」 「……」 基臣氏の返事はない。そんなことをするのは、氷河にも相手の女性にも失礼だし、無意味なことだと言いたいんだろう。 それくらい僕にだってわかってる。 でも、あんな氷河を僕は見ていられないんだ。 僕の知ってる氷河は、いつも自信にあふれてて、学業でもスポーツでも何でも人並み以上にできて、少なくとも同年代の男子の中で氷河に敵う者はこれまで一人もいなかった。 その氷河が、こんなに打ちのめされてしまうなんて、僕は今でも信じることができない。でも氷河が――あの氷河があんなふうになってしまうくらいなんだから、"その人"は本物なんだと思う。その人は、正真正銘の、氷河の求めていた"お袋以上の女"なんだと思う。 だとしたら、僕のできることはただ一つ。その人に、氷河の夢を叶えてくれと懇願することだけじゃないか。 「…教えてやれないこともないが――君はそれでいいのか?」 穏やかで暖かい声なのに、基臣氏の言葉は、僕には冷酷に響く。 取り乱さずに受け答えようと、僕は肩に力を入れた。 「僕の望みは、氷河が氷河らしく氷河の思う通りに生きていてくれることだけです」 本当にそれだけかと、基臣氏の目が問いかけてくる。 僕は唇を引き結んだ。 「君は――君はどうなる?」 この人は、どうしてそんなことを訊いてくるんだろう。僕の気持ちなど知らない振りをして――あるいは忘れた振りをしていてくれればいいのに! 自分の息子が同性に恋されてるなんて、普通の父親なら認めたくもないはずのことじゃないか。 「僕――僕は、氷河にいつも聞かされていたんです。お母さん以上の女の人を見付けて、お父さんみたいに、一生その人を思い続けるのが、氷河の夢だって」 「だから君の思いはどうなってもいい、と?」 「あ…あたりまえでしょう! あなたも氷河の父親なら、氷河の幸福を望むでしょう? 社会的に成功し、他人に尊敬され、人が羨むような愛情に満ちた家庭を築く――あなたみたいな生き方です。氷河には、そんな生き方を現実にできるだけの力があるし、そうなっていいはずの人間だ」 「君の気持ちに気付かないままで?」 「そんなもの、どうだっていいんです!!」 もうやめてほしかった。氷河と同じ声で、僕を追い詰めるのは。 「氷河の夢は僕の夢でもあるんです。一人の人を一生思い続けるっていうのは!」 「…君は、君のお母さんの再婚に、ずいぶん傷付いたんだったな」 「…!」 この人は容赦がない。容赦なく、僕を崖っぷちへと追い込んでいく。 いったい僕に何を言わせたくて、この人はこんなに残酷なんだろう。 「あ…あなたは何でも知ってるんですね。氷河のことも、僕のことまで!」 精一杯の皮肉のつもりだったが、彼には全くこたえていないようだった。 「君が正直になってくれないからだ。おかげで私は、どんどん手持ちのカードを披露してみせなければならなくなる」 「僕、嘘なんかついてません!」 必死の思いで気を張って、僕は言い切った。 「今更、あなたに隠し立てすることなんてありませんから。あなたはもう、何もかも知っているでしょう」 それは本音だった。基臣氏に探り出されるような秘密は、もう僕の中にはない。 基臣氏は、堅く唇を引き結んでいる僕をしばらく無言で見詰めていたが、やがて、小さな吐息を洩らした。 「…いずれにしても、君にその人のことを教えるわけにはいかないな。他人に頼まれて、人が人を愛するようになることがあるとも思えないし、君が嫉妬に動かされて、その人に害を為すことがないとも限らないだろう?」 「…!」 耐え難い侮辱に、僕はソファから勢いよく立ち上がった。拳を握りしめ、基臣氏を怒鳴りつける。 「あ…あなたに何がわかるっていうんです! 何もかも――人生の何もかもが自分の思い通りになって、愛した人に愛されて、挫折や絶望に縁のない人生を送ってきた人に! 絶対に氷河に知られちゃいけないって、それで氷河を悩ませちゃいけないって、毎日毎日自分に言いきかせて、氷河の側にいるために無理に親友の顔を作って、僕は十年近くを過ごしてきたんだ! 氷河の好きになった人を傷付けるくらいなら、僕はとっくに氷河に自分の気持ちをぶつけてた! 氷河を苦しませることも、悩ませることも、悲しませることもできなかったから、僕は今まで黙って氷河を見続けてきたんだ! 氷河のためにならないことをするくらいなら、死んだ方がましだっ!」 一気に言い切ってしまってから、僕は自分が涙を流していることに気付いた。こんな人に涙なんか見せてたまるかという気になって、ごしごしと拳で涙を拭う。 そして、そのまま、僕は客間を出ていこうとした。 ドアの前で、基臣氏の手が僕の腕を掴む。 「待ちなさい、瞬」 「馴れ馴れしく名前なんか呼ばないでください! 僕、もう帰ります!」 「…悪かった。私が悪かったから、あと1分だけ、ここにいてくれ」 それでも彼の手を振り払おうとした僕の肩を掴みあげ、彼は僕を振り向かせた。 「謝罪する。君がそんな子でないことはわかっていたはずだったのに、ひどいことを言った。すまない」 僕より二十センチも高いところで、彼は頭を下げてみせた。他人に謝るなんて、まして、僕みたいな子供に謝るなんて、きっとこれまでしたこともなかっただろうに。 「私はただ、君の口から聞きたかっただけなんだ。君がどれだけ氷河のことを愛してくれているのか」 ……愛――? その言葉に、僕はどきりとした。 それは――僕が氷河を愛してるなんてことは――一生誰にも知られずに終わるものだと思っていたから。 「あ…」 その時の僕の気持ちを何て表現したらいいんだろう。一生胸の奥に閉まっておくつもりだったその言葉を、氷河の声が僕に告げた――。 「君は氷河が好きなんだ」 僕は、いつのまにか目を閉じていた。目を閉じたまま、こくりと頷く。 「今まで誰にも――氷河にも告げたことはなかった」 氷河の声――だ。 「そして、これからも言うつもりはない…」 僕はゆっくりと目を開けた。見上げたそこには、氷河に似た面差しの、だが、氷河ではない人がいて、僕を見おろしている。 「氷河に言うことができないのなら、代わりに私が聞いてやる。君が氷河を愛していることを、私だけは知っていてやる。それで少しは楽になれるだろう? これ以上、氷河のことで君を傷付けるわけにはいかない。このままでは君は壊れてしまう」 「……」 僕は基臣氏の腕の中にいた。力強く心地良い胸に受け止められていた。 その時になって僕は初めて、彼がわざと僕にひどいことを言ったのだということを理解したんだ。僕の胸の中にくすぶっているものを全て外に吐き出させて、僕を楽にするために。 それは、もしかしたら、僕が僕の気持ちに耐えきれなくなって、氷河に向かって爆発してしまうのを避けるためだったのかもしれない。あるいは、失われた妻の代わりを手に入れようとしてのことだったのかもしれない。 僕は、それでもよかったんだ。その二つの目的は僕の望みでもあったから。 だけど、彼は、それ以上に大きな、何か僕を包み込むような暖かい空気を、その身にまとっていた。 |