以前のように四六時中一緒にいることはなくなったが、それでも僕と氷河は絶縁したわけではなかった。
 僕が話しかけていくと、時には氷河も、高校時代までのように、僕に笑いかけてくれることがあった。時々氷河の方から、思い出したように僕の側に来てくれることもある。
 そんな時、僕は、いっそ基臣さんだけを愛せればどんなに楽だろうという思いを、すっかり忘れてしまうんだ。けど、ずっとこの時が続けばいいと願った瞬間、氷河はまたふっと僕から顔を背ける。

 そんなぎこちない四年間の学生生活が終わりかけた頃、僕は、氷河が海外留学の計画を立てていることを、基臣さんから知らされた。

「アメリカかイギリスだろうな。氷河が私の会社に入るつもりでいるのなら。多分、アメリカだろう」
 日本の金融市場開放が進む中、その頃基臣さんは異例の若さでS生命保険の社長に就任していた。それは、頭の堅い老人には、金融国際化の波を乗り切れまいという取締り役会の英断で、実際、基臣さんが会社の全権を握ってからは、同業他社の苦戦を尻目に、S生命保険の業績は飛躍的に伸びていた。ソルベンシー・マージンを、業界トップに押しあげた有能社長というので、マスコミに顔を出すことも多くなった。
 その彼の跡を継ごうというのであれば、海外留学は当然必要なキャリアだったろう。

 だが、そうなれば、僕はもう氷河を見ていることさえできなくなってしまう。氷河との接点すら失ってしまう。僕はひとりぽっちになってしまう――。
 ティーカップをソーサーに戻そうとした手が震える。カップはカチカチと小刻みな音を基臣さんの居間に響かせた。

「おまえが耐えられそうになかったら、氷河を引き止める工作を始めるが?」
 それまでガラスドア越しに夜の庭園を眺めていた基臣さんが、僕に背を向けたまま尋ねてくる。いや、彼は、夜の庭園ではなく、ガラスに映る僕の表情を窺っていたのかもしれない。
「ぼ…僕のために氷河のキャリアを損なうようなことはさせられません。僕が望むのは、氷河の――」
「社会的な成功、他人からの尊敬、愛情にあふれた家庭生活――か? ずいぶん陳腐な望みだな」
「…!」
 いつになく厳しい口調の基臣さんに驚いて、僕は伏せていた顔をあげた。

 ガラスドアに、基臣さんの険しい顔が映っている。
 振り返り、夜の庭を背に、彼は言った。

「それを氷河も望んでいるとは限らないだろう。氷河の本当の望みが何なのか、おまえは氷河に聞いてみたこともないはずだ。氷河がいつまでも理想の女を求め、私と早雪のような関係を夢見ているとは限らない」
「……」
 僕は咄嗟に返事ができなかった。そんなことを、僕は考えてみたこともなかった。氷河の本当の望み――氷河の望むものが変わってしまっているなんて。

「そ…そんなこと……だって、僕……僕は、たった一人の人を見付けて、その人だけ愛し続けるって言った氷河を好きになったんだ。氷河がそれを望まなくなってるなんてこと、あるはずが……」
 不覚にも僕は涙を零していた。どうして僕は、基臣さんの前だとこんなに涙もろくなるんだろう。氷河の前では、どんなにひどい言葉を投げつけられても、涙なんか出てこないのに。ううん。出てこないわけじゃない。氷河の前で泣いたりして、氷河に軽蔑されるのを僕は恐れているんだ。涙を武器に、氷河を思い通りにさせようとするなんてことしたら、きっと氷河は、僕のこと、思い切り蔑むだろう。氷河は昔から、潔い人間が好きだった。基臣さんのように、恥ずかしげもなく人前で泣いてみせる子供を受け止めて甘やかしてくれたりするはずもない。

「おまえが不幸なのは、永遠を求めてしまうせいなのかもしれないな…」
 呟くようにそう言って、僕の顔を上向かせ、基臣さんは僕の唇に口付けた。すがるように彼の首に腕をまわした僕を、そのまま抱き寄せ、抱きあげる。

 ベッドに入ると、僕の苦い涙は、甘いそれに変わっていった。






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