病院に駆けつけた時、早雪はもう危篤状態に陥っていた。 今朝方いつも通りに優しく微笑んで俺を送りだしてくれた早雪が、白いベッドの上から、哀しげな眼差しで俺を出迎えた。 ベッドの脇では、氷河が、苦しむ母の姿を今にも泣きだしそうな目で見詰めていた。病室に入った俺に、救いを求めるようにしがみついてくる。 「ママ、転んじゃったんだ。僕を追いかけて転んじゃった…!」 『二人目のお子さんは流産しました』と医者には聞いていた。転んだだけでこんなに脆く壊れてしまう母の身体が、氷河には理解できなかったのだろう。 俺自身、信じられなかった。早雪の中に子供がいることを、俺は知らされていなかった。知っていたら、俺は多分、早雪にどれほど泣かれても、子供を堕ろさせていただろう。早雪が二人目の子供を流産して不帰の客となることを、俺は知っていたんだから。 「…ごめんなさい」 早雪がか細い声で俺に謝罪してくる。 何を謝っているのか、俺にはわからなかった。謝らなければならないことなど、早雪は何一つしていない。 「私、幸せでした。本当に、誰よりも幸せだったと、自信を持って言えます」 早雪は知っている。知っているんだ。もうすぐ、その優しい命が、俺と氷河の手の届かないところへ行ってしまうことを。 俺は目頭が熱くなって、何も言えず、ただ早雪の手を握りしめた。 「でも、もっと幸せになりたいから――お願いです。基臣さん、私が死んだら、なるべく早く新しい奥様を迎えてください。氷河に、母親のいないことで寂しい思いをさせないでください。私のこと、思い続ける必要なんてありません。そんなことされても、私はちっとも嬉しくない。氷河と基臣さんがなるべく早く私のこと忘れて、新しい家庭で新しい幸福を掴むことが、私の――」 苦しい息の下、これだけは言っておかなければならないと必死に言葉を繰る早雪の望みを叶えることは、俺にはできそうになかった。死に際してすら、これほどに俺と氷河への愛情を迸らせる見事な女性を、どうして忘れ去ることなどできるだろう。 世を拗ね、全ての人を憎み、自分をも見下して生きていた俺の人生を、ここまで豊かにしてくれたただ一人の女性。俺は多分、永遠に手の届かないところにある瞬の面影よりも、今まさに死に赴かんとしている早雪の方を愛しているんだ。 「それは無理だ、早雪」 早雪の白い頬に、一筋の涙が細い線を描く。 それきり、早雪の意識は戻らなかった。戻らないまま、俺と氷河を残し、彼女はひとり旅立っていった。 |