不思議なことに、俺は、一瞬たりとも自分の運命を変えようとは思わなかった。事故を起こすとわかっている飛行機にも、甘んじて乗り込んだ。 『この飛行機は事故を起こし、太平洋上に墜落することになるから、飛ばすのをやめろ』 と公言してまわるには、俺はあまりにも分別を備えすぎた大人だったが、秘書室長に、できうる限りの座席を買い占めさせ、俺自身、随行を付けずに渡米することにしていた。 海外視察の件は、特に瞬には知られぬようにした。 それは、瞬と氷河への、俺の贖罪だった。早雪への贖罪でもあったかもしれない。 自分が高生加氷河だった時に瞬を父に奪われた屈辱を忘れられず、瞬への執着を断ち切れず、俺は自身を高生加基臣に生まれ変わらせ、瞬をこの手に抱いた。そして、俺は瞬と氷河の運命を狂わせ、氷河を――早雪があんなにも愛していた氷河を――不幸にしてしまったんだ。 今、俺ひとりが消えることで、瞬と氷河が本来歩むはずだった人生を取り戻すことができるなら、早雪も少しは俺を――散々氷河を傷付けた愛情薄い父親を――許そうという気になってくれるかもしれない。 俺は本当に、最後の最後まで自分勝手な男だ。瞬を自分の胸に抱き、瞬が高生加氷河を愛してくれていたことを知って、自分だけが幸福なまま、勝手に死んでいこうとしているんだから。 だが、瞬に対する情熱だけは、どんな力をもってしても、俺の中から消し去ることはできなかったんだ。氷河の憎しみ、早雪の思い出、瞬の涙――どんな力をもってしても、だ。 窓の外に、果てのない雲海が見える。 陽光を受けて輝く雲の波に、俺が目を細めた時、 「社長」 俺以外誰も客のいないファーストクラスのフロアに、瞬の声が響いた。 その時の俺の絶望は、たとえ百万の言葉を使っても言い表すことはできないだろう。 俺はこんな終わり方を望んで、自ら死に赴こうとしたんじゃない! そう叫んでしまいたかった。 「供はいらないと言っておいたはずだ」 「はいそうですかと、社長をお一人で視察に送りだせるはずがないでしょう。社長が軽んじられてしまいます。チケットは室長が手配してくれました」 「……」 自分の未来が今消え失せたことも知らず、瞬が穏やかな笑顔で答える。 「運命には逆らえない……か」 では、氷河は、これから先ずっと父親を憎み、その憎しみだけで自分の生を生きていくことになる。そして、おそらく、俺と同じように、その命の終わる時、高生加基臣に生まれ変わりたいと願って死んでいくんだ…。 俺は、その時、俺の人生の全ての瞬間の中で最も強く、自分の息子への愛情を感じていたように思う。 自分が瞬に愛されていたことも知らず、孤独の中で死んでいく惨めで哀れな俺の息子。母親のあふれるような愛に包まれ、多くの才能に恵まれて、氷河は確かに幸福になれるはずの人間だった。 父親が俺でさえなければ――。 氷河の上に、かつての自分の愚かさばかりを見せられて、俺は氷河を嫌悪していた。瞬のように、少しでも氷河の長所を認め、暖かい目を向けてやっていたら、俺は"運命"を変えることができたのだろうか? それも――今となってはもう、知りようもない。 俺は瞬を隣りのシートに座らせた。 「瞬。おまえ、もしかして、私が氷河に会いに行くのだと思ってついてきたのか?」 ふと思いついて、瞬を問い質すと、 「ち…違うんですか!?」 弾かれるように瞬の答えが返ってきた。 もしかしたら氷河の手痛い拒絶にあって、また傷付くだけかもしれないというのに、それでも瞬は氷河に会いたがっている。それほどに瞬に愛されていることも知らず、氷河は、自分の人生を見捨ててしまうんだ――。 だが、氷河のために何かをしてやれる時間は、俺にはもう残されていなかった。 背もたれに体重を預けたまま、俺は、シートのアームに添えられている瞬の手を握りしめた。 「昔――」 今の俺にできることは、瞬の死の恐怖をやわらげてやることくらいだった。 「昔、お前の父親の話を聞いた。彼は、生まれ変わって、おまえの父親になったのだと。おまえは――もし、それが叶うのなら、どんな人間に生まれ変わりたい?」 「え?」 機内に大きな揺れが起こった。 救命具をつけるようにと、機長のアナウンスが響く。 「誰に生まれ変わりたい――?」 瞬は勘のいい子だ。これから自分の上に何が起ころうとしているのかを敏感に悟り、一瞬当惑したような視線を俺に向けてきた。 その眼差しが、やがて、静かな湖のような色に変わる。 そして、瞬は、まるで夢見るような瞳で俺に言った。 「氷河のお母さん」 その時に――俺は全てが見えたような気がしたんだ。 瞬が氷河を愛する権利を求める気持ちは、もしかしたら、俺が瞬を求める気持ちよりもはるかに強い。その願いが叶わないことがあるだろうか。俺でさえ――現にこの俺が、高生加氷河の記憶をもって、ここに存在しているというのに。 俺は、そうして全てを知った。 これから先、瞬がどんなふうに俺を愛するのか。俺がかつて愛した女性が誰だったのか。俺がいつも誰に愛されていたのか。 早雪があれほど俺を信じ、俺を愛してくれた訳も、あれほど瞬に執着していた俺が早雪を愛さずにいられなかった理由も、瞬がどれほど俺を愛してくれているのかも、そして、これからもずっと瞬の愛は終わらないのだということも――。 だが、全てがわかった時、俺と瞬の周囲には、白い煙と炎とが拡がり始めていた。 「では、おまえの望みを望むがいい。それが叶えば、俺はもう一度おまえに出会える」 この瞬間は全ての終わりなのか。それとも始まりなのか。 俺が瞬を求め続ける限り、瞬が俺を求め続ける限り、出口のないこの時間は終わりを迎えない。 瞬の身体を抱き寄せると、俺は、俺の胸の中にいる瞬の瞼を、ゆっくりと指で閉じてやった。 終
|