いくつかの丘を越えた先の平原【エディン】に佇む聖市エリドゥ。 ナキアがその都を初めて訪れた時、都市は夕暮れの橙色の光に包まれていた。河沿いに点在する緩やかな丘の重なりが途切れた時、それはふいに圧倒的な巨大さでナキアの視界を覆いつくした。 ほとんどが三階建か四階建の赤褐色のレンガの家々がどこまでも続き、しかもそのすべてに人間の生活が宿っているのがわかる。家々の窓辺には必ず植物を植えた鉢が置かれていて、そこから赤ん坊の泣き声や甲高い子供の喚声が通りに洩れ聞こえていた。 住居は幾筋もの通りに沿って整然と並び、そのすべてに水道が通っているらしく、途切れることなく水のさざめく音がする。 夕食の用意をしている匂い、楽器の音。 夜が近いというのに、多くの人々が通りを歩いている。 街のあちこちにそびえる神を祭る塔、広場で夕暮れの光景を楽しむ穏やかな顔の人々、店仕舞いを始めた市場のごったがえし――ナキアが暮らしていた村の数千倍、数万倍の人口を、この都は抱え込んでいるようだった。 そして。 遙か彼方に、それらの人々の生活を見守るように、頂に神殿を構えた聖塔【ジッグラト】が巨大な台形の影を橙色の天に映していた。遙か彼方にあるのに巨大だと感じるのである。その大きさがどれほどのものなのかを、ナキアは現実感をもって判断することができなかった。 都の通りに入って馬を疾けさせるのをやめたバーニが、そんなナキアに事もなげに告げる。 「あの神殿が、今日から君の家になる」 バーニの背中にしがみついていたナキアには、彼の表情を確かめることができなかったので、彼女はバーニの両脇を馬で歩むイルラとウスルに交互に視線を投げた。二人は、しかし、まっすぐに前を見据えていて、ナキアには何の説明もしてくれなかった。 広く長い通りを、三騎はゆっくりと神殿へと進む。すれ違う市民たちはみな脇に寄って、馬上の青年たちに頭【こうべ】を垂れていた。 この三人はいったい何者なのかと、ナキアは今更ながらに訝しむことになったのである。 あの神殿に行けば、それがわかるに違いない。そう考えて、ナキアは唇を引き結んだ。 そして――空のかけらすら見えないほど高くそびえ立つジッグラトの麓の広場までやってきた時――それはまさに麓だった――ナキアはそこで信じられないものを見たのである。 レンガを積みあげられてできた大きな山のようなジッグラト。巨大な四角錐の頂上部分には、これまでナキアが市内で見てきた住居の百倍はありそうな神殿が、今日最後の陽光を受けてきらめいている。その神殿からジッグラトの麓に続く長い階段の終わるところに、ナキアは女神の姿を見いだしたのだった。 「着く時刻がよくわかったな」 ウスルが馬上から女神に声をかける。 「わからぬわけがない」 表情もなく低い声でそう答えた女神は、かなりの長身だった。バーニたちとほとんど変わらない。薄青の長衣と腰のあたりまでのびた銀色の髪が、橙から紫に変わり始めた夕暮れの中に、光をまとったように白く浮かびあがっている。 バーニたちがそれぞれ馬をおりると、女神は初めてナキアの姿を認めたらしい。極めて無愛想な声で、彼女は、まるでナキアの存在を咎めるように言った。 「なんだ、その貧相な娘は」 一瞬の沈黙。 それからウスルの悲鳴が辺りに響き渡った。 「む…娘〜〜〜っっ!?」 バーニを含めた三人が、一斉に馬上のナキアを振りあおぐ。視線の集中砲火を浴びて、ナキアは体を硬直させた。 「ナ…ナキア、おまえ、そうなのか? おまえ、娘……女性なのか?」 どもりながら尋ねてくるウスルに、ナキアはこくりと頷いた。次の瞬間、ナキアは三人 の絶句する声を聞いたような気がしたのである。言うべき言葉を探しあぐねているような三人の間をぬって、女神がナキアの側に歩み寄ってくる。 「拾ってきたのか」 女神が尋ねるのに、ウスルはこくこくと首を振るだけの答えを返した。 「ふふん。男か女かもわからずにか。ぬかったな、ウスル。おまえともあろうものが」 馬鹿にしたような言葉をウスルに投げて、女神はナキアの腰を両手で掴み、ふわりと馬の背から降ろしてくれた。 「あ…あの……ここはどこ? やっぱり、私、ほんとは死んでるの? バーニたちに会ったのは…会えたのは、私が死んでるからなの?」 長身の女神を見上げながら、ナキアは自分の声が震えるのをどうしても止めることができなかった。 「おまえ、なに、寝とぼけたことを言ってるんだ?」 間近で見ても奇跡のように麗瓏な女神は、だが、ひどく口が悪かった。 「そんなつっけんどんな言い方したら、この人、怯えちゃうじゃない。ナイドが女神様に見えるんでしょ。初めてナイドに会った時は僕もそう思ったもの」 ふいに女神の横から、一人の少年がぴょこんと顔を出した。淡い茶色の髪と水色の瞳の、白い菫の花のように可憐な少年だった。 「こーんな性格きつい女神サマなんて、俺ァ、御免被りたいなー」 そして、神殿に続く階段の方からもう一人。 こちらは燃えるような赤毛の少年である。いたずら好きな神の御使いとでもいった風情で、明るい人好きのする笑みを浮かべていた。 ずかずかとナキアの前に大股で歩み寄ってきた赤毛の少年は、 「この女神様はさぁ、口は悪いし、性格きついし、おまけに男だから、いじめられないように気をつけた方がいいぞ」 そう言って栗色の瞳をきょろりと見開いた。 イルラがその少年の頭をこつんと小突く。 「こら、アルディ。初対面から恐がらせてどうするんだ。ナイドの性格がきついのは、いずれ嫌でもわかることなのに」 「うっわー、イルラも随分なこと言うじゃん。温厚篤実が売りのくせに」 肩をすくめた赤毛の少年とイルラを、銀色の女神は憮然として睨みつけている。が、そんな表情を見せられても、この銀色に輝く月のように美しい人が男性だなどとは、ナキアには到底信じられなかった。 「いやだ。アルディもイルラも冗談ばっかり。ナイドが誰より優しいこと、ちゃんと知ってるくせに」 女神ナイドの横で、白い菫の花がくすくすと笑い声を洩らす。 「え…と、僕、ナディンといいます。ナキアさん…っておっしゃるの? お歳は僕やアルディより上…ですよね? 僕たち、今十二歳ですけど」 「あ…私、十六……」 この美しい六人の青年と少年が天上の神々でなくて何だというのだろうという思いで口もきけずにいたナキアだったのだが、ナディンと名乗る少年の柔らかい微笑が、ナキアにも声があることを思いださせてくれた。 「十六…!」 ウスルの呻き声がナキアの耳に届く。 「てっきりナディンたちと同じ年頃の男の子だとばかり思っていた…」 「おまえらの阿呆ぶりはよく知っているつもりだったが……。で? どうするんだ、このム、ス、メ」 そこだけわざと音を区切って言ったナイドに、答えを返したのはバーニだった。 「神殿で預かることにした。イルラ、女官たちに彼女の部屋を用意させるように指示を」 「かしこまりました」 イルラが頷くのを確かめてから、バーニは今度はナディンを振り返った。 「ナディン。優しくしてやってくれ」 「はい」 にっこりと微笑んだナディンを一瞬間だけ見詰め、バーニは五人の美神とナキアをその場に残し、神殿へと続く大階段を登り始めた。 (バーニも私のこと男の子だと思ってた…んだろうなぁ、やっぱり…) ついさっきまでしがみついていたバーニの広い背中を見やり、ナキアの胸はひどく切なく痛んだのである。 その夜ナキアが与えられたのは、故郷の村の一軒家分ほどの広さの家具付きの部屋と、全身をつからせることができる温かい湯の入った大きな浴槽、真新しい短衣と栄養価のある食事、そして、柔らかく清潔な白い寝台だった。 |