イナの熱狂に影響されたのか、その夜はナキアまでが興奮して目が冴え、なかなか寝就くことができなかったのである。 だから、ナキアは気づいたのだった。 部屋の扉の向こうで、深夜微かな物音がしたのに。 訝しんで寝台をおり廊下に出たナキアは、扉の横に瑠璃色のガラス瓶が置いてあるのに気づいた。顔をあげると、廊下の先に銀色の人影が見える。 「あ…あの…っ!」 人影が振り向くのを待つまでもなく、それがあの女神のような美貌の主だということはナキアにはわかっていた。彼は、長い廊下の壁に灯された灯火と夜の闇が作りだしたあやふやな薄闇に浮かびあがる銀色の夜の女王のようだった。 「なんだ、起きていたのか」 ナキアの部屋の前まで戻ってきたナイドは、容貌に似つかわしくないぞんざいな口調でナキアに言った。 「ナディンに泣きつかれたんでな。おまえは若いんだから、放っておけば綺麗になるとは言ったんだが…」 彼が何のことを言っているのか、ナキアはすぐにはわからなかった。ナイドがふいにナキアの手を取り、じろじろと、まるで値踏みするように観察し始めるまで。 一瞬遅れて我に返ったナキアは、慌ててナイドの指から自分の手を取り戻した。ナキアのまるでひったくるように乱暴な仕草を、ナイドが鼻で笑う。 「ふん。ナディンが泣くわけだ」 そうして腰をかがめて床に置いた瑠璃色の瓶を取りあげると、彼はそれをナキアの手に押しつけてきた。 「朝夕と手を洗うごとに、これを手に擦りこめ。香料の入った乳液だ。十日もすれば、おまえの手は滑らかになる」 瓶の細い首をつまんでいるナイドの指は、ナキアのそれと違って恐ろしく優美で――だが、確かに男性の手だった。間近で見ると、肩幅も広いし、胸にも厚みがある。身長もナキアより頭二つ分は高く、声も完全に男性のそれだった。なぜこの人が女神に見えたのか――ナキアは今更ながらに自分の目を怪しんだのである。それは肌の白さや輝く銀色の髪のせいだったのかもしれない。面と向かって見ると、ナイドに女性的なところは全くなく、その美しさは確かに青年のものだった。 「おまえ、今日、ナディンに手を握られて、それを振り払ったんだろう?」 やはりナディンは気づいていたのだ。ナキアはきつく唇を噛んだ。 「おまえがナディンの綺麗な手に嫌悪を感じたからなのか、自分の荒れた手を恥じたからなのかは知らないが…」 ちらりと、彼は探るような視線をナキアに投げた。 「ナディンは、ま、手の荒れるような仕事をしたことがないからな。すっかり自己嫌悪に陥ってしまったらしい」 「な…なんで!? なんでナディンが自己嫌悪に陥ったりしなきゃならないの!? 私はただ、こんな手、あの子が触るの嫌だろうって思ったから、それで…!」 ナイドの言葉に慌てたのはナキアだった。 だが、ナキアの弁明に、ナイドは全く興味がないらしい。 「おまえの真意なんて、俺にはどうでもいいんだ。おまえの採るべき道は二つに一つしかないんだからな。一つは、そいつでさっさと手を綺麗にして、その事実をナディンの前で喜んでみせること。もう一つは、明日、荒れた手のままでナディンの手を握ってやること。どちらかといえば、後者の方が望ましい」 それがナキアの義務だと言わんばかりの命令口調だった。しばらく考えこんでから、 「二つに一つじゃないな。その両方をやれ。いいな」 ナキアの返答などお構いなしで、言いたいことだけを言い終えると、彼は踵を返した。 ナキアの手には瑠璃色の瓶。 ナイドが立ち去った後も、ナキアはしばらくぽかんとその場に立ちつくしていたのである。何がどうなっているのか、よくわからなかった。 ナイドの親切は、ナキアよりはナディンを気遣ってのことのようだったが、それでも親切は親切である。明日の招喚式の用意で多忙な中、知り合ったばかりのみすぼらしい少女に与える乳液を調達するために、彼は時間を割いてくれたのだ。 (私の手のためになんか、なんでナディンもナイドも…) ふいにナキアは目の奥が熱くなってきた。 ナキアの故郷の村には、ナキアが飢えて道に倒れていても声を掛けてくれる者すらいなかった。この神殿に住む人々は、あの村人たちとは全く違う種類の人間なのだろうか。だから彼等はあんなにも美しいのだろうか。 『あのナイドだって、美しい心を持っているから、あんなに輝いて見えるんだもの』 美しい心を持てば、人は皆あのシュメールたちのように美しくなれるのだ――ナキアにそう信じさせてしまうだけの力を、美しいシュメールたちは確かに持っていた。 |