ナキアはその日のうちに、神殿の西居住区から、東側にある王とシュメールの居住区の一室に移った。つい今朝方まで気安い口をきいてくれていたイナは、ナキアがニンフルサグの座のシュメールだと知って恐縮しきっていた。
 ナキアに新しく与えられたのは、東の居住区の二階にある二部屋だった。寝室と居間が続き部屋になっている。レンガが見えないようにすべての壁が刺繍のほどこされた布で覆われていて、広く住み心地もよさそうだったが、決して華美ではない。隅々まで気配りの行き届いた部屋ではあったが、むしろ想像していたよりはずっと質素で、だが清浄な空間だった。北側を除いた三方が外に開けていて、西側に神域と中庭を、南側にエリドゥの都の市街地を、東側には外庭を望むことができる。王が灌漑事業に熱心だというだけあって水はふんだんにあるのか、東西の庭は緑が豊富だった。
「けど、寝る時以外、自分の部屋ってあんまり使わないなー。俺たち、飯食うのもくつろぐのも大抵一緒で、一人きりになることって滅多にないから」
 引越の手伝い――というよりは、むしろ邪魔をしにきてくれていたアルディがそう教えてくれたが、全く彼の言う通りの生活が翌日からナキアの上にも訪れたのである。
 朝起きると六人揃って神域に行き、王と行政官たちの前で聖歌を歌う(歌を覚えていないナキアは見学だけだったが)。その後、六人揃って朝食をとり、御前中はウスルの講義。午後はナディンが聖歌を教授してくれる。
 当面のナキアの務めはそれだけで、それ以外の時は、事務的な仕事を抱えていないナディンやアルディと運動がてらの自由時間。夕食も六人一緒、食後就寝するまでの時間も大抵は共有の場所でくつろぐ。
 ナキアの側には必ず五人のシュメールのうちの誰かがいたし、ナキア自身、他の五人の誰かが一人でいるのを見ることは稀だった。ナキアは、一人で時を過ごすのに慣れているはずの自分が、そんな状況に違和感を覚えないことに、逆に違和感を覚えたのである。
 午前中、シュメールの歴史の講義をしてもらっている際に、その疑念をウスルにぶつけたところ、彼は講義を中断してナキアに教えてくれた。
「シュメールというのは、『善き方向に向かえ』という神の意思を、王や官吏や民に歌で伝える者だ。人々は我々の歌を通して、無意識のうちに神の命に服する。だが、我々シュメールは、我々が民に対して念じる思いを感じることはできても、その力に影響を受けないんだ。つまり俺が『静かに俺の講義を聞くように』と念じながら歌を歌えば、国中の者が机について静粛に俺の講義を聞くことになるだろうが、肝心の君には俺の歌は効かないということだ」
 普通の人間が言葉や力で人の心や行動を変えようとすることを、歌で、しかも絶対服従させてしまうのがシュメールなのだ、とウスルは言った。だからシュメールが邪悪な心を持ってしまったら、とんでもない事態を招きかねないのだ――と。シュメールの心は、シュメールの歌で矯正することはできないのである。
「だから、神は、我々が一人では生きていられないように造られたのだろう。嫌な言い方をすれば、我々六人はいつも仲間を見張っているんだよ。国の行く末を誤らせるほどの邪悪は、孤独な人間に芽吹きやすいものだからね。我々シュメールは、一人でいると異様な不安感に襲われる。そして、仲間と一緒にいると安らげる。昔――ナイドより三二代前の月神の座のシュメールが崩れ落ちたジッグラトの中に一人閉じ込められ、四日後に救いだされるという事故があったらしいんだが、彼は仲間たちと離れている不安に押し潰されて、救いだされた時には発狂していたそうだよ。我々が一人で生きていられるのは、一ヵ月が限度だ」
「…そんなことが…」
 ナキアはウスルの説明を聞かされて、その胸の奥にじわりと苦いものが滲み出てくるような嫌な気分に捉られた。
 初めてバーニたちに会った時、大した躊躇もなく故郷の村を捨てる気になったのは、その時既にシュメールの一員になっていた自分の、仲間の許に集いたいという止むに止まれぬ衝動からだったのだろうか。どこの馬の骨とも知れぬ少女をナディンたちが快く受け入れてくれたのもすべて、神の仕組んだシュメールの仲間意識からだったのだろうか。そうだとしても――そうだったとしても、である。
「でも、私がみんなの側にいたいのは、みんなが綺麗で優しい心を持ってる人だってわかってるからよ! 私、自分がシュメールじゃなくたって、きっとウスルたちの側にいたいって思うに決まってる。神様の命令で嫌々一緒にいるわけじゃない…!」
「もちろん、我々もそうだよ、ナキア」
 いきり立つナキアを、ウスルは、彼にしては柔らかい微笑でなだめてくれた。






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