「あんな下品な男のために聖歌を歌う気になどなれんっ! 少なくとも信任式にナディンは出さないぞっ。あんな男にじろじろ見られたら、ナディンが汚れる!!」 東の居住区のシュメール共用の居間に戻るなり、ナイドは椅子を蹴飛ばして、その容貌にふさわしからぬ怒声を響かせた。信任式の打合せのためにバーニもその場にやってきていたのだが、ナイドにはそんなことはどうでもいいことだったらしく、全く遠慮がない。 「あのなァ、ナイド。おまえの気持ちは痛いほどよくわかるが、そういう我儘が通ると思っているのか? 相手は仮にも一つの都市の王で、しかも武装した兵を多く引き連れて来ているんだぞ。だいいち、シュメールが全員揃わない信任式など聞いたこともない」 ウスルの執り為しに、だが、ナイドは耳を貸そうともしなかった。 「礼を尽くす価値のある相手になら、俺も礼を尽くす! 服属都市の王など、俺たちの下位に位置する者だ。俺たちシュメールは諸王の王であるエリドゥの王と同格なんだからな! あんな下衆野郎、明日の信任式で罷免してやる!」 憤懣やる方ないといった様子のナイドの横で、ナディンがおろおろしている。原因が自分にあるだけに、何と言ってなだめればいいものか、さすがのナディンも思いつかずにいるらしい。 「…それでなくてもナイドはそーゆー性癖の男が大っ嫌いなのに、よりにもよってナディンに目ェつけるんだもんなァ。あのおっさん、殺してくれって言ってるようなもんだぜ」 お手上げ状態のアルディがぼやくのを聞きながら、ナキアは怒り心頭に発しているナイドの側に恐れることなく近寄った。そして、意識して明るく、ナイドの憤怒を笑い飛ばした。 「いやーね、ナイド。何言ってるの。相手が下品で気持ち悪いおっさんだから、私たちの歌を聞かせてやらなきゃならないんじゃないの。あの品性下劣で爬虫類みたいな目のスケベ親父の邪な心なんて、塩水につけて揉み洗いした鰊の白子みたいに真っ白にしてあげましょうよ。それで少しは食えるようになるかもしれないし」 「……」 からかいの混じったナキアの微笑に、ナイドが一瞬絶句する。一呼吸おいてから、彼は怒らせていた肩をすとんと落とした。 「……おまえも結構きついことを言うな…」 ナキアはいたずらっぽく肩をすくめた。 「こういうなだめ方って、ナディンにはできないでしょ。なんか、私、シュメールの中での自分の役割に気づいちゃったのよね」 実はあれからすっかり剣技の練習が気に入り、時間を見つけてはナイドに手ほどきをしてもらっていたせいで、ナキアは彼の気性をほとんど把握してしまっていた。要するにナイドは、気に入ったものには尋常でない独占欲を抱くが、そうでないものへの嫌悪を隠せない――隠す気のない男なのだ。 「……ナディンと二人して、俺の癇癪を鎮めるために頑張ってくれるわけだ。ありがたくって涙が出るな」 「そーでしょー、そーでしょー」 ころころ笑うナキアにつられて、ナイドは苦々しく唇の端に笑みを刻み、イルラたちはほっと安堵の胸を撫でおろした。 「……」 その時、だった。それまで無言でシュメールたちのやりとりを眺めていたバーニが、ふいに椅子から立ちあがり、六人のシュメールに背を向けたのは。 シュメールたちの笑い声から逃げるように、彼は静かに居間を出ていった。 (陛下…?) いつのまにかバーニの姿が室内から消えていることに最初に気づいたのはナディンだった。彼は、キシュ王の品性のこきおろしに盛り上がっている仲間たちをその場に残し、王を捜して外に出た。 東の居住区を庭に面して囲む回廊のどこにもバーニの姿はなかった。神の意を汲むシュメールの下世話に過ぎる会話に呆れ果て、王は自分の執務室に戻ってしまったのかと、ナディンは一瞬思った。が、すぐにナディンは、回廊ではなく外庭の花壇の横に設えられた長方形の石の椅子に腰をおろしているバーニを見つけた。 「陛下。お一人でいらしてはいけません」 肩に蕭然とした空気をまとわりつかせているようなバーニの気配に遠慮して、ナディンは小さな声で彼に言った。 ゆっくりと振り返ったバーニが、ナディンの姿を認め、薄く微笑う。 「…私には一人になる自由もないというわけか? シュメールと違って、王は一人でも生きていられるのに」 「陛下…?」 バーニの口調はいつになく投げやりだった。 「――ナキアはすっかりシュメールの一員になってしまったようだな。あの気難しいナイドにまで、あんなふうに接することができるとは…。普通の少女なら、ナイドの前に出ただけで腰が引けて口もきけないだろうに」 一目で作ったものだとわかるバーニの微笑を、ナディンはじっと見詰めた。やがて、ためらうように口を開く。 「陛下…。お寂しいのですか」 ナディンの問い掛けに、バーニは月陰の下で肩をすくめた。 「私が…? 私は一時も一人でいることが許されないというのに? 私は、寂しいという感情は、最後の肉親を神に奪われた時以来感じたことがない」 「それは…」 自分に注がれるバーニの眼差しを辛そうに受けとめ、ナディンは微かに首を横に振った。 「それはもう三年も前のことです。ごまかさないでください」 「ごまかす? 何をだ?」 「ごまかしていらっしゃいます。いえ、本当のことをおっしゃった。最後の肉親だけでなく、ナキアさんまで神に奪われてしまったと、そうおっしゃりたかったのでしょう、今。違いますか」 「……」 バーニは一瞬間言葉に詰まったようだった。が、すぐにまた、どこか寂しげな微笑を浮かべる。 「おまえに隠し事ができると思ったのが間違いだったな。おまえはいつも容易に私の心を見透かしてしまう。おまえの勘がいいのか、私が未熟なのか…」 「僕はナイドほど人の心を読む力に長けてはいません。でも、先程の陛下は……ナキアさんが仲間に解け込んでいることを喜んでいらっしゃるようには見えませんでした」 「つまり、私が未熟だというわけか…」 バーニはそう言いながらナディンに両手を差しのべ、彼を側近くに招いた。自分の前に立つナディンを見上げる恰好で、その手を握りしめる。 「では、ナディン、聞いてくれ。おまえにしか言えない。聞くだけでいい」 「はい」 ナディンの短い返事には、我欲のために人を殺めた者をさえ許し受け入れてくれるような穏やかさと寛容があって、 (私はまた、この小さな子供に甘えようとしているのだ…) という意識をバーニの胸に呼び起こした。 「――私が初めてナキアを見たのは、我等が国土の東の端の小さな村の外れだった」 だが、バーニは、その小さな子供に話し始めた。神に選ばれたシュメールだという事実とは別の理由で、バーニにとってナディンは神の代理人だった。人を認め、許し、もしかしたら、裁く権利さえ有する地上における神。しかも、その神は、愛の女神【イナンナ】に愛されている――。 「最初は、我等が国土にこんな子供がいたのかと驚いた。王として、自分の無力に憤りもした。がりがりに痩せこけて、木の枝のような手足、頬の肉は落ち、ぼろぼろの衣服をまとい、孤独な野犬のような目をして――本当に衝撃を受けたんだ。なんとしても救ってやらなければと思った」 「はい。イルラとウスルから聞いております。陛下は、ナキアさんの様子にとてもお心を傷められていたと」 「それがどうだ。おまえたちと過ごしているうちに、ナキアはどんどん明るく美しくなっていって……本当に――冬の間枯れ枝だったものが、春の陽射しの中で見る見る美しい花を咲かせるように――。私は目を見張ったよ。こんな力が、私と私の国に降り注いでくれたなら、私の国はもっと豊かに、もっと美しくなるだろうと、ナキアを見るたびに思った」 「わかります。ナキアさんは強くて、どこか野性的な生命力に溢れていて、しかも、とても豊かで素直な感情を持っています。陛下がナキアさんに恋しても、ちっとも不思議じゃない」 「……」 それまで、半ば憧憬に近い眼差しでナキアを語っていたバーニの瞳がふいに曇る。 ナディンはその変化に眉根を寄せた。 「違う…んですか…?」 バーニはそれには答えず、それまで強く握りしめていたナディンの手を離した。小さなシュメールから顔を背けて立ちあがる。 「…私は臆病なくらい自重している。自分の人生が神に支配されていることも、神の意思に背くことが国の行く末を危ぶませることも自覚しているつもりだ。私には神の機嫌を損ねるようなことはできない。ナキアはナキアの幸せを見つけるだろう。私は私の夏菫の御方を待つさ」 「陛下…」 バーニの頬が蒼ざめているのは、蒼い月の光のせいばかりではないだろう。月の光に満ちた緑の庭に、長い沈黙が訪れる。やがてナディンは、その沈黙とためらいを振り払うようにして、傷心の王に尋ねた。 「陛下…もし……もし、ナキアさんも陛下をお慕いしておりますと申しあげたら、陛下は――陛下は運命に逆らおうとなさいますか」 ナディンが意を決して口の端にのぼらせた問い掛けに答える代わりに、バーニはナディンの頬に右の手で触れた。 「可愛らしい顔をして、残酷なことをきく」 その手の冷たさにナディンは身をすくませた。そして、王の冷めた瞳の色で、ナディンは悟った。 「気づいてるのっ!? ナキアさんの気持ちに気づいてるのに、ナキアさんを苦しめてるのっ!?」 ナディンの頬に添えられたバーニの手が、ぎくりと強張る。 「ナディン…」 ナディンはバーニの手を振り払った。 「ひどい、そんなの! ナキアさんがどんなに陛下を……どんなに陛下を…!」 責める言葉も思いつかないほど心を乱し、ナディンは小さな二つの拳をバーニの胸にぶつけていった。 「ナディン!」 その手首を、バーニの両手が掴みとる。 それでもバーニを打とうとして両の拳に力をこめるナディンを見おろし、バーニはその手を解放した。 自由になったナディンの拳は、しかし、バーニの胸に振りおろされることはなかった。消えていったバーニの手の感触が、ナディンに自制を促したのかもしれない。だが、力無くおろされた二つの拳はきつく握りしめられ、小刻みに震えてさえいる。それは、仲間を苦しめている王への憤りのせいだったかもしれないし、自身の一時の激情への後悔のせいだったかもしれない。 「も…申し訳ございません…。お父様…先王様がどれほどお苦しみになったのかを、僕、知ってるのに……。僕には陛下に何を言う権利もなかったのに…」 俯いたナディンの細い肩を痛々しげに見おろして、バーニは首を横に振った。 「いいんだ。おまえは…おまえたちはシュメールで、仲間の苦しみは自分の苦しみでもあるんだったな。私はまたおまえを苦しめているというわけだ…」 「陛下…」 バーニが自嘲の笑みを意識せずに浮かべる。 ナディンは、左右に首を振った。 「そんなふうにお考えにならないでください。陛下は…陛下もご自分のことより国のことを考えて苦しんでいらっしゃいます」 「……おまえはいつも、人にも神にも善意をしか認めようとしない」 バーニの責めるような声音に、ナディンは王の顔を見あげた。だが、ナディンは、バーニの中に憤りや勘気の色を見いだすことはできなかった。代わりに優しい穏やかな声が降ってくる。 「私のことより、ナディン、おまえ自身のことで――何か辛いことや不自由はないか?」 バーニの右手が再びナディンの頬に触れる。ナディンは王の紺青色の瞳を見あげ、口元に微かな笑みを刻んだ。 「はい、僕は大丈夫です」 「何かあったら、どんな些細なことでも私に言うんだぞ? すべてを自分で抱えこもうとしないで」 「ご心配には及びません。僕は一人ではありませんし」 「それはわかっているのだが…」 ナディンの頬に触れていた手をそのまま彼の背にまわし、バーニは自分の胸にも届かない小柄なナディンの体を抱きしめた。 「私はおまえのためならどんなことでもしてやるよ。本当だ。どんなことでもしてやりたい…」 「陛下…」 バーニの腕の中で、ナディンがくぐもった声を洩らす。 「お気遣いは無用です。僕は陛下のシュメールです。僕の命も心も陛下に捧げております」 銀色の月の光と闇の色を吸い取った緑とが、二人を静寂で包みこんでいる。神の手に奪われそうな恋人を引き離すまいとするかのように強く、バーニはいつまでも小さなシュメールの体を抱きしめていた。 |