バーニが二人の侍従に支えられて居室に戻ると、ナキアたちは神域の脇にある小部屋に移動した。キシュの軍隊がエリドゥに向かって進軍していることはまだ王の補佐官にさえ知らせていなかったから、三人の会話は密談にせざるをえなかったのである。
 小部屋は、採光のための小さな窓が一つあるきりの、快適とは言い難い部屋だった。中央にある卓の椅子も四つしかない。
 ナイドの唇から、先程の酷薄な笑みは既に消えていた。
「イルラたちがキシュ軍に遭うのは――キシュ軍の進行の速度にもよるが、明日の夕暮れ前後になるだろう。それからイルラたちの首尾がどうなったか連絡が入るのは更に翌日。奴らの首尾が上々なら祝いの宴の準備をすればいいが、失敗したという連絡が入った時には、即座に第二陣が出発することになる。俺とナディン、だな」
「うん。アルディは疲れてるだろうから」
 ナイドの言葉に、ナディンが堅い表情で頷く。
「アルディ?」
 二人の話が見えなかったナキアは怪訝な顔になった。イルラたちが失敗したら――考えたくはないことだが――アルディは戻ってこないはずだと思ったのである。
 ナイドが少しばかり呆れた口調でぼやいた。
「――おまえなァ、なんでおまえが俺は行くべきじゃないと言った時、俺が異議を唱えなかったと思ってるんだ?」
「え?」
「どうせ使いっ走りにされるってことがわかってたからだ」
「?」
 そこまで説明されても理解できずにいるらしいナキアに苛立ちを覚えたのか、ナイドは右の眉を吊りあげた。
「いいか。イルラたちがキシュ軍の進行を止めるのに成功するか否かは、最初の一曲で決まる。もし、それで進行を止めることができなかったら、三人のうち一人はその事実を知らせるために、エリドゥの都にとって返すことになる。逃げることだけに気を配って馬を駆けさせれば、エリドゥまで半日。当然アルディが戻ってくることになる。で、イルラとウスルが失敗したことがわかったら、即座に第二陣が出る。俺とナディンだ。俺は、その時に使いっ走りの直後で疲労してるより、万全の体調でキシュ軍に臨みたい。…ま、生きるんでも死ぬんでも、ナディンと一緒なら、俺に文句はないがな」
 ナイドは、小さな卓の上に右手で頬杖をつき、そう言ってにっと笑った。
 ナディンが、そんなナイドを責めるように声をあげる。
「ナイド! イルラたちはキシュ軍を帰国させて、無事に帰ってくるよ!」
 半分泣きそうな顔のナディンを見て、ナイドはすぐに居住まいを正した。
「万一の話だよ、ナディン。俺だって、そんなことは望んでいない」
 いつものことではあるが、ナディンに対する時は口調からして違う。慰撫するようにそう言ってから、ナディンの手前、ナイドは真面目な顔になった。
「万一のことではあるが、大事なことだ。ナキア、おまえに言っておく。俺とナディンが向かう頃には、キシュ軍はエリドゥの目と鼻の先に来ているだろう。だから、もう連絡係は不要だ。俺たちが成功したか失敗したかはすぐわかる。俺たちがキシュ軍を阻止するのに失敗したことがわかったら――」
「私とアルディでキシュ軍を迎え撃てばいいのね」
「神殿を出るんだ。そして次代のシュメールを捜す」
「…え?」
 ナイドはナキアの声など聞こえなかったかのように、ナキアが考えてもいなかったことをさらりと言った。
「いちばん辛い仕事だが、やり遂げてもらわねばならん。最後の二人は命を危うくしてはならないんだ。必ず次代のシュメールを捜しだし、新しい仲間たちと我等が国土に平和を取り戻さなければならない。ま、期せずしてシュメールの中で最も生活力があって逞しい二人が残るわけだ。いちばんやり遂げてくれそうな組み合わせだな」
「うん…僕もそう思う」
 最も困難な試練を他人に課そうというのである。ナディンは言葉とは裏腹に辛そうな目をしていた。
「それからね、ナキアさん。神殿を出る時は必ず陛下と一緒に。たとえどんな状況下にあろうと、陛下のお側にシュメールがいないという事態は避けてください。一日に一度、必ず聖歌をお聞かせして、それから――」
「ちょ…ちょっと待って、ナディン。王とシュメールが逃げだしたら、この神殿はどうなるの!」
 仲間を捜しだすことがどれほど困難なのだとしても、それが人々の幸福に繋がるのであれば、必ずやり遂げてみせるとナキアは思う。しかし、そればかりは――シュメールの歌を月毎に聞かされて争うこともできなくなっている人々を見捨てて、自分たちだけが逃げることだけは、ナキアにはできそうもなかった。
 ナイドは、だが、事もなげに答える。
「キシュ軍の気の向くまま、だな。虐殺されるか、無血でキシュ軍の麾下に入るか」
「そんなこと!」
 できるわけがない! と、ナキアは叫びそうになった。
 この神殿王宮にはイナがいる。シュメールが暮らしやすいようにと気を遣って生活全般の世話をしてくれていた女官たち、シュメールを信じきっている神官、行政官、下働きの者たち――彼等をキシュ軍の蹂躪するにまかせるのが、シュメールの務めだとでもいうのだろうか。そんなことをするくらいなら死んだ方が余程まし、余程辛くないではないか。
「それなら、私、ここに残る。残ってキシュ王に聖歌を聞かせてやるわ。バーニにはアルディがお供すればいい!」
 ナキアの主張を、ナイドは言下に撥ねつけた。
「おまえ、アルディを殺す気か。神殿内の者たちは抵抗さえしなければ、十中八九生きのびられるが、アルディは一人になったら一ヵ月以内に必ず死ぬ。当然、おまえもだ、ナキア。そして、シュメールが滅びされば、神の意思を民に伝える者が地上から消える。それでもし世界が穢れに満ちることになったら、神々はジウスドラの伝説のように大洪水を起こして、地上のすべてを押し流してしまおうとするだろう。神がそうそう慈悲深いものだと思うなよ。おまえの惚れた男がどれほど神を畏れているかを見ればわかるだろう。奴が神を畏れているのは、臆病だからじゃないんだぞ!」
「……」
 ちくちくと皮肉や厭味を言われるならともかく、ナイドにこんなにも大上段に怒鳴りつけられるのは、ナキアは初めてだった。思わず絶句してしまったナキアを見て、ナディンがナイドの長衣の袖を掴む。
「ナイド! そんな言い方しちゃ駄目だよ。アルディなら奮起するかもしれないけど、ナキアさんは萎縮しちゃう…!」
「こいつはそこまで馬鹿でもないし、弱くもないさ。世の中で一番強いのは母親、二番目に強いのは女、三番目にやっと狼の出番になるんだぞ、ナディン」
「そんな……」
 ナイドの言葉に呆れたような顔になり、ナディンは嘆息した。ナイドの相手をやめて、ナキアに向き直る。
「ナキアさん、心配なさらないでくださいね。そういう時は行政官たちが、神殿内で働いている人たちを外に逃がし、神殿の明け渡しをすることになります。キシュの王様だって、ひどいことはできませんよ。この王宮にもエリドゥの都にも、キシュから来ている人はたくさんいますし」
 そう言ってナキアを安心させてから、ナディンは少し小声になった。
「陛下、数日前から具合いが悪いようなんです。もし万一神殿を出ることになったら、気を配ってさしあげてくださいね」
「……」
 ナディンは王と共に神殿を出た者たちが、そのまま神の手の届かないところに逃げてしまう可能性を考えはしないのだろうか。アルディを丸めこみさえすれば、それは決して不可能なことではないのである。
「ちょっと…一人になって考えたい…」 
 自分に向けられる意味ありげなナイドの視線より、ナディンの澄みきった眼差しの方が息苦しくて、ナキアは席をたった。






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