イルラたちがキシュ軍に向かった翌日、朝の宣誓式は執り行われなかった。イルラたちの不在を行政官たちに知られるわけにはいかなかったのである。ナイドとナディンがバーニの私室に行って王に聖歌は聞かせたらしかったが、ナキアはその件については彼等に尋ねなかった。
 三人だけの朝食は、アルディがいないせいで妙に静かで、その分気を遣って色々と話題を持ちだし場を和ませようとしているナディンを困らせたくなかったのだ。
 自分ではそんなつもりはなくても、『神に逆らい、国より民より恋をとってほしい』という無意識下の願いが自分の歌に乗ってしまっているのなら、そして、その歌がバーニの心を惑わせているのなら、やはり自分はバーニの前で歌うべきではないと思った。
(でも…王の前で歌うことのできないシュメールなんて、シュメール失格よね…)
 朝食後、ナキアは自室に戻り、一人悄然としていた。

 西に向いた窓からは、大河【ブラヌン】に沿って黄褐色の大地が広がっている。アルディの姿はまだ見えない。
 あの西の果てから帰ってくるシュメールが三人であれば、国土の平和は保たれたことになる。しかし、それがもし一人であれば――神はシュメールに更なる犠牲を欲しているのだ。
(ただ待ってるだけって辛いなァ…)
 ナキアが胸の内で呟いた時、まるでそれを見計らったように、ナイドが彼女の部屋を訪れた。彼は二本の長剣を持ち、紫紺の短衣に着替えていた。
「やらないか?」
 尋ねておきながら、返事も待たずに、細い方の剣をナキアに投げてよこす。
 ナイドもまたじっとしているのが耐えられないのかもしれない。あるいは、これが、ナイド流の慰め方なのかもしれない。そう思うほどに、ナキアは彼を疑ったことを後悔した。
「うん、やろう、やろうっ!」
 二つ返事で、ナキアは剣を受け取り廊下に出た。
「ナディンは?」
 剣技場に向かう通路を歩きながらナイドに尋ねると、彼はむすっとして、
「王付きの侍従に、王の具合いを聞いてから来るそうだ」
と、不機嫌そうに答えてきた。
 たとえ明日死ぬかもしれないという状況でも、ナイドはナイドでしかないらしい。ナキアは含み笑いを洩らした。
「なんだ。ナイドが私を誘ってくれたのって、私を励ますためじゃなく、自分のイライラを吹き飛ばしたいからだったのね」
「ふん。あんまりずけずけものを言うと、手加減してやらないぞ」
と言いながら、もちろん彼は手加減せざるをえないのである。ナイドの剣はナキアのそれより三倍も重いもので、本気で一振りすればそれだけでナキアの剣を真っ二つに折ってしまうような強剣なのだ。
 ナキアとナイドの立ち合いが立ち合いとして成り立っているのは、一重にナキアの身が軽いからだった。それこそ、剣を一回払うだけで終わってしまう猪突猛進のアルディを相手にするよりは余程面白いらしく、ナイドはナキアとの立ち合いを好んでいるところがあった。
 ナキアもまた、雑念をすべて忘れて必死で体を動かしていられるこの時間が好きだった。しかも、その相手がナイドとなれば、これは目の保養にもなる。ナキアは夢中で剣を振るい続け――正確には、ナイドの剣から逃げまわり続けた。

「ナ…ナイド、ちょ…ちょっと休憩入れましょ。喉渇いたーっ!」
「…そうか?」
 三度ほど立ち合いをして、ナキアは音を上げた。いくら手加減してくれるとはいえ、やはりナイドの相手はナキアにはきつい。ナイドが息も乱していないのが癪ではあったが、いつものことなので、今更毒づく気にもなれない。
 額の汗を手の甲で拭いながら剣技場の周壁際にある椅子に腰をおろしかけたナキアは、妙な違和感を覚えた。何かがいつもと違うと思い、すぐに何が違うのかに思い至る。
 いつもなら、ナイドとの立ち合いを終えたナキアに、にこにこしながら冷たい飲み物を差し出してくれるナディンがいないのだ。
「――ナディン、遅いわね…」
 バーニの居室の方を見あげ、ナキアは独り言のように呟いた。
 途端に、ナキアの横で剣を鞘に戻そうとしていたナイドの横顔が強張る。
「しまった…!」
 叫ぶなり、彼は剣技場を飛びだしていた。無論、ナキアには何の説明もない。
「ナイド!?」
 血相を変えたナイドの様子に、ナキアは一瞬あっけにとられた。だが、すぐに彼の後を追う。
 何が起こったのかはわからない。だが、神々が人の世の穢れを根こそぎにするために大洪水を起こしても泰然と構えているだろうナイドがこれほど慌てるということは、ナディンの身に何かあったのだとしか考えられない――ナイドを追いかけながら、ナキアにわかったのはそれだけだった。
 ナキアの推察は当たっていたのだろう。ナイドはまっすぐにナディンの部屋に向かっていた。叩き割るように扉を開けて、ナディンの名を大声で叫ぶ。そこにナディンがいないことを確認するや、彼は、今度はナディンの部屋より更に奥まったところにあるバーニの居室に向かって、脱兎のごとく駆けだした。






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