第八章  悲しい夢





 そこはエリドゥの都の一画にある、質素で目立たないささやかな家だった。
 窓のない暗く狭い部屋。灯されている明かりが、寂しい光で室内を照らしている。
「お母様!」
 幼い子供のすがりつくような叫びは、病床の若い母親に向けられていた。
 寝台に横になっている女性は、豊かな茶色の髪を枕の上に波打たせていたが、その頬はやつれ、掛け布の上に投げだされている腕も痛々しいほどに痩せ細っていた。本来は美しい女性なのだということは、傍らの男の子の面立ちを見ただけでわかる。痩せ細った母の手を握りしめている五、六歳ほどに見える少年は、朝の光を受けて開花したばかりの白い菫の花のように愛苦しい面立ちをしていた。
 母親が永遠に手の届かないところに旅発とうとしていることは、幼い彼にも感じとれているのだろう。彼の瞳は涙でいっぱいだった。
 寝台の脇に跪く少年の後ろに、三人の男性が立っていた。紺青の瞳をした壮年の男性が一人と、若く美しい青年が二人。三人とも鈍色の長衣をまとっている。
 彼等は痛ましげな眼差しを、その不幸な母子に投げかけていた。
「…ナディン。お母様はもうすぐ、神様がおいでになるところにお出掛けしなきゃならないの。ナディンはお母様がいなくなっても、いい子でいられるわよね?」
 ここで『はい』と答えるのが"いい子"なのだということは、幼いナディンにもわかっているのだろう。だからこそためらいがちに、彼は母に尋ねた。
「…僕も一緒に行っちゃいけないかしら? お一人だとお母様がお寂しいでしょう?」
「それはできないのよ、ナディン。だからお約束して。いい子でいるって」
「……」
 ナディンはいつも母と一緒だった。父とは滅多に会えない分、ナディンは母を慕い、母親も尋常でない深い愛情でナディンを慈しんだ。その母が、苦しい息の下から求めているものを、ナディンに拒めるわけがない。
「はい、お母様。約束します」
「いい子ね、ナディン…」
 母に髪を撫でられて、ナディンは瞳を潤ませたまま微笑んだ。もうすぐ遠いところに行ってしまう優しい母。少しでも喜ばせ、そして褒めてもらいたかった。
「いいこと、ナディン。それからもう一つ、大事なお約束よ」
「はい」
「お父様――ナディンのお父様には、夏菫の御方とおっしゃるとても大事な方がいらっしゃるの。ナディンは決してその方とお会いしてはいけません。お母様はその方をとても苦しめて悲しませたの。夏菫の御方は、ナディンを見たら、きっと同じようにお苦しみになるでしょう。だから決してお会いしてはいけません。お約束できる?」
「はい」
 なぜ"いい子"でいることより、そんな見知らぬ人に会わないことの方が大事な約束なのか、ナディンにはわからなかった。だが、それはたやすく守れる約束だと思い、だからナディンはすぐに頷いた。
 痩せてアララトの峰の雪のように白く血の気のない母の指を小さな両手で包み、その手に口付ける。それは、ナディンと彼の母親の"お約束"の儀式だった。
「お母様がいなくなっても、ナディンのことはお父様が護ってくださるわ。時々ナディンに会いにもきてくださるでしょう」
 それまでナディンに預けていた手で、逆にナディンの手を握りしめ、彼女はナディンの傍らに立つ紺青の瞳の男性を見詰めた。
「陛下が真実愛していらっしゃるのは、夏菫の御方だけ。それは存じあげております。ですがナディンは陛下の御子、どうか……どうか…!」
「わかっている、シェルア。済まぬ。すべては私が弱かったせいだ。そなたには残酷なことをした」
 ナディンの父は、病床の女性に深く頭【こうべ】を垂れていた。この美しく哀しい母子に謝罪の言葉も見つけられないとでもいうかのように。
 ナディンの母が微かに首を横に振る。
「いいえ、陛下。陛下には思いだすのもお辛いことでしょうが、そして神の意に背くことでもありましょうが、あの負【ふ】の時は、私の至福の時でございました。私は神殿にあがり初めて陛下にお会いした十五の時からずっと、陛下をお慕い申しあげておりました。陛下、どうぞ陛下に捧げた私の一生に免じて、ナディンを……ナディンを…!」
 目尻を伝った涙が、敷き布に吸い込まれていく。自分の息子の父親に言葉ではすがっても、彼女は自分自身の手を彼に差しのべることはしなかった。彼女にはそうすることはできなかったのである。してはいけないのだということを、彼女は知っていた。
 ただ、幼くして母親を失う小さな息子にだけは、父に見捨てられた寂しい人生を送ってほしくなかった。
「ナディンはエリドゥの王子だ。それにふさわしい生活を約束する」
 残される子供の行く末を気遣う死を前にした母親に、それ以外どんな言葉を与えられただろう。エリドゥの王は、ただシェルアの心を安らげるためだけにそう答えた。それが実現できる約束なのかどうかも、彼にはわからなかったのだが。
 だが、ナディンの母にはわかっていた。
「夏菫の御方を悲しませるようなことはなさいますな。それは神の意にも背くことです。もし――悲しむ方がいらっしゃらなくなった時にだけ、ナディンをお側に呼んでやってくださいませ。……ナディン」
「はい、お母様…!」
 意味は理解できないまでもしっかりと記憶にとどめておこうとして、真剣な目で両親の会話を聞いていたナディンは、母に名を呼ばれて、母の手に添えていた指に力をこめた。
 その手は既に、アララト山の雪解け水のように冷たくなっていた。
「ナディン、憶えていてね。お母様はナディンを愛しているわ。お父様を愛しているわ。それが何より大切なことなの。この先ナディンに何があっても、このことだけは忘れないで。お母様はナディンを愛しているの。だからとても幸せだったの。それだけが…大事なことなのよ」
 王の背後に控えていた二人の青年が、低い声で聖歌を歌い始める。死にゆく女性の安らぎと、残される少年の幸福とを願う歌。母との約束を忘れず、人を愛する心を抱き続けていれば必ず幸福は訪れると、ナディンを慰撫する歌。
 まだシュメールではなかったナディンの心に、その歌はどんな作用を及ぼしたのか――。
「お約束します、お母様。僕、絶対に忘れません」
 ナディンのきっぱりした返事を聞くと、シェルアは微笑んで、そして、静かに息を引きとった。



(これは夢…? ナディンの思い出? それとも私の知らないかつてのシュメールが私に教えてくれてるの? エリドゥの王を愛した、夏菫の御方ではない女性の不幸を? ……ううん。あの人は不幸には見えない。哀しみに満ちているのに、不幸ではなかったんだ…)
 ナキアは、浮遊しかける意識を自分の中に引きとめながら、幼いナディンの涙に濡れた頬をじっと見詰めていた。

 ささやかな二人だけのシュメールの歌が、やがて六人揃った荘厳な悲しみの歌に変わる。
 夏菫の御方――バーニの母親――が亡くなったのだということが、ナキアにもわかった。






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