「ナイド…行かないで」
 掠れた声は震えていた。白い腕は痛々しいほど細かったが、その指が、青銅の扉の端をまるで食い込ませるように掴んでいる。
「ナディン…」
 その場から動くことができなくなって唇を引き結んだナイドを見詰め、ナディンは瞼を伏せた。
「僕、知ってます。お母様はお父様を愛してらしたけど、お父様はお母様を愛してはいらっしゃらなかった。僕は誰にも望まれずに生まれてきたんでしょう? 神様も僕をお嫌いで、夏菫の御方以外の母を持つ王子なんて、国土の民も許さない」
 おそらくは兄の口から知らされてしまったのだろう。傷ついた草食動物のようなナディンの瞳には涙の幕がかかっている。
「でも、お母様が……」
 ナディンの言葉を否定してやれない自分に、ナイドは歯噛みした。
「お母様が言ったの! お母様はお父様を愛してらして、だから幸せだったって。だから僕……僕、だって、みんなが僕のこと嫌いなのに、僕までみんなを嫌いになったら、僕は幸せになれないの…! お母様は僕に幸せになってっておっしゃったの! その方法を教えてくださったの! 僕、お約束したんだもの。僕、幸せでいなくちゃならないの…!!」
「……」
六つ。それはたった六つの子供の考えることだろうか。年齢よりも幼いあどけなさと、年齢にふさわしくない悲壮が、ナディンの中には哀しいほど自然に同居していた。
「お願い、ナイド、行かないで。ナイドがいてくれれば、僕、お母様とのお約束も守れそうな気がするの。ナイドがいなくなっちゃったら、僕、世界中の人たちを憎んじゃいそう……っ!!」
 泣いてすがるのは卑怯なことだと思っているのだろうか。これまでナイドと会う時はいつも涙を流していたナディンが、今ばかりはきつく唇を噛みしめて、必死で涙をこらえている。扉の前から、それ以上ナイドに近寄ろうともしない。ナイドが最後のただ一つの希望なのだとでも言うような目をして、だが、その希望に拒絶されることに怯え、全身を細かく震わせている。
 先に耐えられなくなったのはナイドの方だった。涙を隠すために急いでナディンの側に歩み寄り、彼は片膝を床におとしてナディンを抱きしめた。
 泣くのはほぼ十年振り、他人のための涙など、生まれて初めてのことだった。ちょうどナディンほどの歳の頃、ナイドは自分に泣くことを禁じたのである。泣く代わりに他人を見下し憎悪し呪うことで、自分自身を守ってきた。十年間守ってきた戒めは、だが、ナイドと全く逆の生き方を選んだ小さな子供の手であっさりと破られてしまったのである。
 しかし、ナイドにはそんなことはどうでもいいことだった。ナイドはナディンを抱きしめる腕に強く力をこめた。
「おまえを愛さない奴がいたら、そいつの方がおかしいんだ。ナディン。そんな奴等のために、おまえが傷つくことはない」
 失わずに済んだ最後の希望に抱きしめられて陶然としていたナディンが、自分の首筋に触れる熱いものに気づいて、ナイドの顔を覗きこむ。
「ナイド…泣いてるの…」
 悔しそうに唇を噛むナイドの頬に、ナディンがそっと手で触れる。
「僕のために泣いてくれる人は、もう僕しかいないんだと思っていたのに……」
 ナイドにもらった切なくて悲しい幸福に、ナディンが微笑む。紫水晶の雫のようなナイドの涙を見詰め、ナディンはうっとりと呟いた。
「ナイドは、涙まで綺麗……」






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