「すまん、ナキア。おまえを傷つける気はなかった」 ナキアが夢から覚めた時、ナディンも長い夢から目覚めていたらしい。アルディが運んできてくれた食事をとってから、ナキアがナディンの部屋に行くと、ナディンは既に寝台に体を起こしていた。 ずっとナディンに付いていたナイドが神妙な顔をして謝罪してきたが、ナキアは笑顔で彼に答えた。 「平気よ。私、頑丈にできてるの。完治するまでしばらくお務めは休むようにとは言われたんだけど……シュメールには休息日もないって、いつも愚痴ってたのはナイドの方だったのに、なんか悪いわねー」 ナイドがナキアの軽口に、かえって辛そうな目になる。 それに気づかぬ振りをして、ナキアはさりげなく話を逸らした。 「私、長い夢を見てたの。ナイドが優しくてびっくりしちゃった」 「……」 それはナディンにとっては、人に知られたくないことだったに違いない。彼はバーニのことには触れず、 「ナイドはお母様みたいに優しいよ…」 と、まるで一人言のように小さく呟いた。 「うん、そうね…」 ナキアも頷き返しただけだった。 ナキアはただ、元気になった自分をナイドたちに見せたかっただけなのである。自分の方が怪我をしたように青ざめたナディンの頬を見て、ナキアは早めに退散した方がよさそうだと判断した。 「ナディン、もう少し横になってた方がいいわよ。私、自分の部屋に戻るわね」 「ナキアさん!」 枕元の椅子から立ちあがりかけたナキアを、ナディンの鋭い声が遮る。椅子をナキアに譲って寝台の方に腰をおろしていたナイドの指を握りしめ、ナディンは、自分を励ますようにして言葉を繰り始めた。 「ナキアさん、陛下のお苦しみを察してあげてくださいね!」 「ナディン…」 「…負の時のこと、もうご存じですよね」 もう一度椅子に座り直したナキアから視線を逸らし、顔を俯かせて、ナディンはナキアに尋ねてきた。 「シュメールの歌の効力が切れた時…のことね、エリドゥの王の」 ナディンは顔を伏せたまま、頷いた。 「僕はその時の申し子です。…陛下は恐ろしかったのだと思います。いつもお優しくて、夏菫の御方を愛してらして、民にも慕われていた父君が、シュメールの歌をほんの数日聞かなかっただけで、周りの人の信頼すべてを裏切るようなことをしてしまったことが。誰よりも慈悲深く誠実な王と信じていた父君が、実はシュメールの歌で作られたもので、何もかもが嘘で、そして自分もいつかそういう王になるのかもしれないって、そう考えることがどんな恐怖かわかりますか」 「……」 敬愛していた父に裏切られた――と思ったのかもしれない。ナキアが、自分の好きになったバーニはシュメールの歌で作られた虚像だったのだと思ったように。 「エリドゥの王になるってことは、シュメールによって自分の意思を奪われることなのだと、陛下は思ったと思います。でも、陛下はシュメールの歌の支配下にある父君を尊敬してらしたし、実際シュメールの歌から離れたところで父君のなさったことを考えると、シュメールの存在意義を否定することもできなかった。けど、誰だって、自分を律するのは自分自身でありたいでしょう? 陛下は悩み苦しまれたと思うんです。それは、エリドゥの王になる運命を背負った者にしかわからないお苦しみです。でも、陛下は結局自分を捨てて、民のためにシュメールを受け入れられました。『シュメールの歌は私を解放してくれた』とさえおっしゃって――笑っておっしゃって……」 ナディンの声は涙に濡れていた。 「けど、それは、自分自身を否定することでもあるんです。シュメールの歌は記憶までは消せないんだもの。陛下はご自分の意思で、ご自分を苦しませる道をお選びになったの。シュメールの歌を拒否すれば、ご自身を誤魔化すこともできる。あれは仕方がなかった、悪いのは自分じゃない…って。シュメールの歌さえ聞かなければ――善きことだけを為せ、正直であれ、真摯であれ、自分に厳しくあれ、それが王の務めだ…って歌うシュメールの歌さえ聞かなければ、陛下はもっと楽でいられるのに、それでも…それでも陛下は…!」 「ナディン…!」 身を乗りだし、すがるように訴えてくるナディンを、ナキアは思わず抱きしめてしまっていた。ナイドが機嫌を悪くするかもしれないとは思ったが、ナディンを愛しく感じる心の方が強くて、自分を抑えることができなかった。 「ごめんね、ナディン。ごめんね。私、それでもバーニが好きなの。ナディンにあんなひどいことした人なのに、私、バーニのこと嫌いになれなかったの…」 「ナキアさん…」 ナディンは、ナキアの言葉に心を安んじたようだった。強張っていたナディンの体からすっと力が抜けていくのを、ナキアはその胸と腕で感じることができた。 「よかった…僕…。ナキアさん、まっすぐな人だから、僕のために無理に陛下のこと嫌おうとするんじゃないか…って、心配だったんです。ごめんなさい」 安心して気が緩んだのか、目眩いを覚えたらしいナディンを、ナイドの腕がすっと支える。 「でも、ナディンは? ナディンはどうなるの? ナディンばっかりかわいそう…」 「え?」 ナキアの涙にナディンがきょとんとする。 それからナディンはふわりと微笑んだ。 「僕、ちっともかわいそうじゃありませんよ。僕は、だって、ナイドに会えたもの。僕をナキアさんに会わせてくださったのも陛下だもの。僕はいつも一人じゃなかったんです」 「……」 心底からナディンはそう思っている――そう信じさせてくれるナディンの微笑みが、ナキアの心を軽くした。 「うん…。ナディンの周りの人はみんな、ナディンが大好きよ」 瞳に、まだ少し涙を残して、ナキアは頷いた。このナディンを妬んでいられた自分に、今は驚きさえ覚えた。 二人のやりとりをそれまで黙って見詰めていたナイドが、ふいにぼそりと呟く。 「そんな庇いだてなんかしないで、あいつは最低の男だと言ってやれば、ナキアも愛想を尽かすだろうに」 そう呟いて彼はナディンから目を逸らし、その視線をナキアに転じた。思い切ってしまえない恋なら仕方がない――そんな表情をしていた。 「あのね…ナディン、ナイド。バーニがおかしくなったの、きっと私の歌のせいだと思う。だからこの怪我は自業自得。ナイド、だから気にしないで。ナディン、ごめんなさい」 ぺこりと頭を下げ、そして、顔をあげた時、ナキアはそこに暗い目をしたナイドを見つけ、一瞬奇妙な不安を覚えた。 |