「ま、ナディンならうまくやるだろう。ナイドがナディンに逆らい続けるなんて、そうそうできるわけもないしな。俺たちへの手前、しばらくは意地を張ってみせるかもしれないが、そのうち戻ってくるさ」
 嘆息混じりのウスルに、バーニは頷いてみせた。
 それから彼はしばらく無言でナキアを見詰め、ナキアと目が合うと、照れたような微笑を浮かべてイルラに告げた。
「――ナディンの言っていた命がけの苦難というのは、つまり、その……ナキアの体を君たちが確認するということなのか」
「…そのようですね。ナディンにしては人の悪い…」
 少々遠慮がちに答えたイルラに、バーニは、しかし横に首を振った。
「いや…。ナディンは私のためにああ言ってくれたんだ。幸福はどこにでもあるものだが、人間が幸福になろうと思ったら、自分の意思でそれを掴み取らなければならないのだと、あの子はそう言いたかったんだろう」
 自分自身に言いきかせるようにそう言いながら、バーニが今度はまっすぐにナキアを見詰める。
 その視線を体に受けとめて、ナキアはかーっと頭に血がのぼってくるのを自覚した。心臓がどきどきと激しく波打ち、その音が仲間たちにまで聞こえているような気になる。
 そんなことがあるのだろうか――と、ナキアは思った。
(私…、ほんの数カ月前まで、大河【ブラヌン】のほとりで草の上に寝起きしてた、家もない孤児だったのに…)
 そして、つい先程まで、初恋の成就を諦めていた…。
 それが、急転直下のこの展開である。
 本当に、幸福というものは、この世界中の至るところにふんだんに用意されているものなのかもしれないと、ナキアは思った。勇気をもって手を伸ばせば、誰にでも掴めるものなのかもしれない――と。
 同じことを、バーニも考えていたのかもしれない。彼はナキアの側に歩み寄ってきた。そして、意志的な視線をナキアの上に据え、明確な発音で告げた。
「ナキア。私は、知っての通り、内にとんでもない災厄の元を抱えた男だ。これまで、国のため、民のためと理由をつけて、何事からも逃げ腰だった。だから、君の強さと率直さにずっと憧れていた。――ナキア。叶うなら、私を君の夫として受け入れてほしい。君がいてくれれば、私は強い人間になれると思う」
 あの紺青色の瞳でまっすぐに見詰められ、しかも夢のような――夢にも見たことのないような言葉を告げられて、ナキアはぼーっとなり、ほとんど思考力を失いかけていた。
 バーニの言葉を頭の中で幾度も幾度も繰り返しているうちにくらくらしてきて、ナキアはその場にへたりこんでしまったのである。
「ナキア!」
 思いがけない恋人の反応に、バーニが驚いてナキアの名を呼ぶ。
「ご…ごめんなさい。わた…私、のぼせちゃった…」
「ナキア……」
 バーニはそれなりに緊張して、ナキアの答えを待っていたのである。彼の肩からは思わず力が抜けてしまった。
 が、むしろその脱力感が心地良く、バーニは苦笑しながらナキアを助け起こしたのである。
 イルラたちも、そんな二人を笑いながら見詰めていた。
「では、そちらの小部屋の方で、さっさと王に課せられる苦難を済ませてしまいましょう。私とウスルは遠慮して、アルディに確認を…アルディ?」
 イルラとウスルは、我等が国土の王と未来の王妃の、なかなか笑えるやりとりを微笑ましく見守っていたのだが、アルディは全く別のことに気をとられていたらしい。
 ナイドとナディンの姿の消えた広場に、アルディはまだ視線を落としていた。
「アルディ!」
 ウスルに名を呼ばれ、アルディは弾かれたように仲間たちの方に振り返った。
「どうしたんだ?」
「ん……うん…」
 尋ねられ、アルディは首をかしげながら、ぼそりと呟くように言った。
「イルラたち、俺の目がいいこと知ってるだろ? 四階以上なら、こっから都の東の端のナイドの屋敷の窓の数だって数えられる」
「ああ。それが?」
「ナディンがさ、ナイドを追いかけていったろ? んで、追いついて、ナイドが後ろ振り返ったろ?」
「ああ」
「そん時さぁ、ナイドの奴、俺たちの方をちらっと見てさ、そんでもって、にやっと笑ったんだ」
「――笑った?」
 神域の青銅の扉の前で、ウスルとイルラは顔を見合わせた。
 キシュ王の挙兵、エリドゥの王の殺害の企て――それらをナイドが実は後悔も反省もしていないのだとしても、そのためにナディンを悲しませたことだけは、ナイドも悔やまずにはいられなかったはずである。いくらナディンが追いかけてきてくれたとはいえ、その後悔があっさりと霧散するはずがない――とそこまで考えた時、ウスルはナイドの真の目的を悟った。
 ばしんと音をたてて、青銅の扉を手の平で打ちつける。
「ナイドの奴っ! それが目的かっ…!」
 口惜しそうに、まるで呻くように低く洩れてきたウスルの声。
 ナキアは一抹の不安を覚えつつ、続くウスルの言葉を待った。
 そして、それは、
「神が許すも許さないもない。最初からナイドの目的はナディンと二人の長期休暇だったんだっ!」
という、とんでもないモノだった。
「ナイドが企んだにしては杜撰すぎる反逆計画だと思ってたんだ。あの陰険姑息で計算高いナイドが、こんな流れに任せるような行き当たりばったりの……くそっ。何もかも計画通りだったんだなっ!」
 ウスルの確信に満ちた断言を、だが、ナキアはすぐには受け入れられなかった。否、ナキアはあっけにとられてしまっていたのである。
「ちょ…長期休暇…って、確かにナイドはシュメールには休みもないっていつもぼやいてたけど、いくらなんでもそんな……そんなことのために、キシュの王様に反逆をそそのかしたっていうの…?」
「意趣返しもあったろう。奴はキシュ王を嫌っていた」
「でも、あの夜……キシュ王が来た日、ナイドはバーニを睨んでたのよ。すごい恐い目で」
「ナディンが陛下を慕ってるなんて、そんなことは奴は六年も前からわかってたんだ。ナディンが自分を信じきり、陛下とは別の意味で慕っていることも、奴は知っていた。ナイドは多分――ナキア、君を愛していても受け入れることはできないという陛下の言葉に憤ったんだよ。奴は自分勝手な男だから、自分の仲間を傷つけられて黙っていられなかったんだろう」
「けど…だからってバーニを……」
「陛下に剣を向けたのは――君が陛下を庇う方に賭けていたんだろう……いや、ナイドは賭けなんかしない奴だ。確信していたんだろうな。君に怪我をさせるつもりはなかったんだろうが……」
 いかにも自信がなさそうに、ウスルの語尾は細くなっていく。
 アルディは、その点遠慮がなかった。
「ナディンがいないから言えることだけど、ナキアの怪我は計算の内だったと思うぜ。その方が陛下の気持ちに揺さぶり掛けられるじゃん。陛下がナディンに何かするって方が予定外だったんじゃないかなぁ」
 アルディの推察に眉をしかめつつ、ウスルが頷く。
 イルラは、しかし、納得できないでいるようだった。
「だが、いくらなんでもそれは……。女性の体に傷痕が――」
「イルラ、甘いよぉ。まあさ、ナキアがそんなこと気にしない質だってわかってるから、敢えてしたんだとは思うけど、ナイドは、目的が正当だと思ったら手段は選ばないぜー」
「しかし、そんな…」
 そうまで言われても、イルラはまだ納得できないでいた。彼は何事かを為す場合、目的も手段も選びたい人間だったのだ。
 そんなイルラを慰めるように、バーニが口を開く。彼の右の手はナキアの肩に置かれていた。
「ナイドは――ナディンと同じように、私に決意を促すために、一つ間違えば反逆者の汚名を着せられるようなことを敢えてしてくれたのだと思う。神の意思に逆らうのではなく、神の意思を変えさせるくらいの思いで事に当たれば道は開かれると、そう言いたかったんだ。いっそ見事じゃないか。これだけの大騒ぎを起こしておいて、一人の死人も出さずに私を叱咤し、私の花嫁を見つけ、キシュ王への意趣返しをし、ナディンの気持ちを自分に引きつけ、おまけに長期休暇まで手に入れるとは。私も見習いたいくらいだ」
 バーニの『私の花嫁』という言葉に、またしてもナキアの心臓が跳ねあがる。今度はへたりこんだりしないようにしなければ…と、ナキアは気を引き締めた。
「陛下…。そういうところはナディンに似てらっしゃいますね。甘すぎます」
 ウスルのぼやきに、アルディが大きく頷く。
「そーそー。間違ってもナイドに感謝なんかしちゃいけないよな。陛下がナキアとうまくいけば、その分ナディンを独占できるとか姑息なこと考えただけに決まってんだから」
「独占? これ以上か?」
 気の毒なイルラは、その場で頭を抱えこんでしまった。
「少し悪い子でいた方が、ナディンが気にかけてくれるだろうとも思ったろうしなー」
「奴の考えそうなことだ」
 ウスルもまた、苦虫を噛み潰したような顔になる。
「考えてみれば、奴のいつものやり口だ。憂いを顔に貼りつけて、不安そうな振りをしたり拗ねたりして、ナディンの目を自分に引きつけておこうとする。ナディンがいつもナイドのことを最優先させてるってことは知ってるくせに、ことあるごとにそれを確認したがる。ついでにその様子を俺たちに誇示して満悦してやがるんだ。たくもう、あの我儘男!」
 だからこそ結局、自分とナディンの仲を誇示する相手を必要として、ナイドは仲間たちの許に戻って来ざるをえないだろう――と楽観していられるのではあったが。


「……」
 呆れ果て、疲れきり、脱力している仲間たちを見やり、そうだったのかもしれないと、ナキアは心の中で呟いた。すべてはナイドの計画通りだったのかもしれない、と。
 けれど――と思う。
 すべてはナイドの計画通りだったのかもしれないが、それでも、もしかしたらナイドの中にももう一人のナイドがいたのではないだろうか。

『僕の命も心も陛下に捧げております』

 ナディンのあの言葉に、ナイドの横顔が醜く歪んだ一瞬。
 ナディンの信頼も愛もわかりすぎるほどにわかっていても、それでも、ナイドはナディンにとって唯一の存在になりたかったのではないだろうか。何もかもが計画通りに進む中、ナイドは誰かがその計画をぶち壊してくれるのを待っていたのではないだろうか。
(たとえば、私がバーニを庇わない。私がバーニを許せない……)
 すべてが彼の計画通りに進んでいくのを、もしかしたらナイドは苦い思いを噛みしめつつ見詰めていたのではないだろうか。
 ナキアは自分の傍らに立つバーニを見た。仲間たちを見た。
 そして、このことは決して言ってはいけないことなのだ、と思った。
 誰もが自分の中にもう一人の自分を抱えている。そうして、もう一人の自分を思う通りに動かせないことで悩み苦しんでいるのだろう。神は、そんなふうに脆く不安定な人間の心を試しているのかもしれない。
 ナイドの真意を知ろうとするのは意味のないことである。ナイドは二人いるのだから。ナディンを愛するナイドと、自分だけのものでないナディンを憎むナイドと。
 ナキアにできるのは、これからもナディンを愛するナイドに勝ち続けていてほしいと願うことだけだった。皆に祝福される恋をナキアにもたらしてくれたのは、ナディンを、そして仲間を愛しているナイドだったのだと思うから――。
 ナキアは、もう一度仲間たちを見た。この場にいない二人を含めて、この美しく心優しい仲間たちがナキアに幸福をくれたのだ。
「これでナディンに好きな女の子ができたりなんかしたら、ナイドってどうするのかしらね」
 改めて仲間たちに感謝の言葉を伝えたいと思ったのだが、照れくささのせいでそうもできず、代わりにナキアは彼等に笑い話を提供した。――そのつもりだったのだが。
 ナキアのその軽口に、仲間たちは揃って表情を凍りつかせた。
 しばらくの間をおいて、イルラが呟く。
「我等が夏菫の御方は、恐ろしいことをおっしゃる…」
 全員が、それぞれに、そうなった時のことを想像してしまったのだろう。その時は今回どころの騒ぎでは済むまい――と。
 揃って青ざめ、それから彼等はやがて声をあげて笑いだした。
 彼等は笑うことしかできなかったのである。
 我等が国土の王とシュメールは、半ばやけになっていたのかもしれない。





Fin.







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