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「氷河は、氷河のマーマが亡くなった時、いっそ自分も死んでしまいたいとは思わなかった?」
「……これから一人でどうやって生きていけばいいのかを考えるのに手一杯で、そんな呑気なことを考えている暇はなかった」
あれは、一輝が死んだ──はずの──夜だった。
瞬が俺の部屋に来たのは、多分 俺が母親の──近しい肉親の──死に対峙したことのある人間だからだったんだろう。

「──前向きで強いんだね、氷河。兄さんの後を追いたいなんて、そんなことを考えるのは、きっと僕がこれまでいつも兄さんに守られて、幸せで、大した苦しみに出会わずに生きてきたからだね」
抑揚も音量もなかったが、瞬の声はひどく落ち着いていて、そして不思議なほど優しい響きをたたえていた。
「母親が死んで、俺は一人きりになった。シベリアには、俺が死んでも その始末をしてくれる者がいなかった。だから死ねなかっただけだ」
「……」
「だが、今のおまえには仲間がいて、とりあえず誰かに葬式を出してもらうくらいのことはできるだろう。だから、そんなことを考えても不自然じゃない」
おそらく、俺のところに来る前に、本当はほとんど振っ切れていたんだろう。
瞬は、俺の言葉を聞いて 薄く微笑した。

「変な慰め方……」
「へたで悪かったな」
「ううん……。『一人でも強く生きていけ』なんて言われるより、ずっといい」
「……一人じゃないから生きていくしかないのさ」
「……一人じゃないから……?」
「そうだ」
「……ふうん」

誓って言うが、俺はそんなつもりはまるでなかった。
それまで瞬とはろくに口をきいたこともなかったし、いったい何を考えているのか、強いのか、弱いのか、まるで訳のわからない奴だ──とだけ、思っていたんだ。
断じて(!)やましいことを考えて、瞬にへたな慰めを施したわけではない。
挑発したのは、むしろ瞬の方だったと思う。
何事かを、瞬が口にしたわけではなかったけれども。

夜も更けてきたというのに、いつまでたっても自室に戻ろうとせず、それでいて何か話をするわけでもなく、無言で俺のベッドに坐り込んでいる瞬に(部屋の主であるこの俺が 椅子に腰掛けているというのにだ!)、『いい加減 自分の部屋へ戻れ』と告げた途端、その言葉はいかにも心外と言わんばかりに俺を見あげてきた瞬の大きな瞳──。
緑が深く沈んだような色の、その奥に様々な思いを潜ませているように潤んだ、人の目に触れることのない深い森の奥に静かに存在する湖のような瞳──と、薄く開かれた唇──。
それは、まともな美意識を持った人間に抗いきれるものじゃなかった。

「──俺は、おまえの兄じゃないぞ」
「知ってる」
一瞬にして、俺は恋に落ちた。
なんとでも言ってくれ。
あの時は、自分でも自分が よくわからなかったんだから。
瞬の肌は、濁りのない蒸留水のように清潔で頼りなく、ほのかに鼻孔をくすぐる甘く謎めいた香りがした。






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