「氷河っ!」
数日振りに あいまみえる恋人の姿に、瞬が歓喜の声をあげる。
瓦礫の山を ぴょんぴょん飛び越えて氷河の側に駆け寄っていった瞬は、真近で氷河の顔を確認するや否や、彼の岩戸ごもりの訳を 一瞬にして理解することになったのだった。
「ひ……氷河……そのほっぺ……」
頬骨から顎にかけて、ほぼ直線を描いていた氷河の顔の輪郭が、今は微妙な曲線を描いている。
つまり、いかにも東スラブ系ロシア民族のそれだった氷河の顔が、今は ほとんど普通の日本人のおにーちゃんの丸顔になってしまっていたのである。
「そ……そのほっぺ……って、もしかして、オタフク風邪……?」
そういえば数年前の城戸邸オタフク風邪大流行時、沙織にさえ取りついたオタフク風邪が、どういうわけか氷河にだけは寄りつかなかったことを、瞬は思い出した。
「じゃ、氷河が部屋に閉じこもっちゃったのって、まさか……」

開いた口が塞がらない――とは、このことである。
瞬は文字通り ぽっかりと口を開けて、ぷっくりほっぺの氷河をまじまじと見あげてしまったのだった。
氷河が、バツの悪そうな目をして、さりげなく右手を顎に当てるふうを装い、自分の顔の下半分を隠そうとする。
「す……すまん、瞬。俺はただ、こんな顔をおまえに見せたくなかっただけなんだ。おまえを泣かせるつもりじゃなかった」
「ば……」
怒りも驚きも不安もどこかに消え失せてしまった瞬は、怒りでも驚きでも不安でもない、何が何だかわからない感情のために混乱し、その瞳から再び涙をぽろぽろ零し始めることになった。
「ばかっ! 氷河のばかっ! 僕、心配したのにっ! 僕、もうオタフク風邪にかかる心配はないんだから、看病でも何でもしてあげたのに! 氷河のほっぺが丸くたって四角くたって三角だったって、そんなこと、僕にはどうでもいいことなのにっ !! 」
「すまん……悪かった……」

涙にくれる瞬の肩を抱きとめて謝罪しつつ、氷河は、瞬のその言葉に、ひどく複雑な気分になっていたのである。
無論、『そんな変な顔の氷河なんて、僕の好きな氷河じゃない!』などと言われることに比べれば、瞬の『氷河のほっぺが丸くたって四角くたって三角だったって、そんなこと、僕にはどうでもいい』という瞬の断言は、喜んでいい類のものなのだろうとは思う。
が、実は氷河は、自分が顔以外にどんな美点を持っているのか、その点について 全く心当たりのない男だったのである。
氷河は、自分のプライドの98.6パーセントを自らの顔にかけている男だったのだ。

「氷河、熱、ないの? 氷河の部屋、滅茶苦茶になっちゃったから、僕のベッド使えばいいよ。僕、ずっと ついててあげるね」
氷河に会えない不安に比べれば、オタフク風邪ごとき心配の種にもなりえない。
瞬は安心しきった笑みを浮かべ、氷河のYシャツの袖を引っぱった。
「でも、ほっぺ膨らんでる氷河って、すごく可愛いね。ほっくりしてて、ふかしたジャガイモみたい」
突如出現してしまった瓦礫の山など気にとめた様子もなく、瞬が氷河を いそいそと自分の部屋に引き入れる。
(じゃ……じゃがいも…… !? )
生まれてこの方 一度も聞いたことのない形容句にショックを受け、氷河は瞬に促されるまま、二人のベッドに倒れ込んだ。
瞬が、そんな氷河を、嬉しそうに 甲斐甲斐しく気遣い始める。
「氷河、熱もないし、咳も出てないみたいだね。これじゃ、オタフク風邪っていうより、顔が太っただけみたい」
「……」

瞬はもちろん、病人をいじめようとか、落ち込ませようとか、この数日間 放っておかれたことの恨みを晴らそうとか、そんなことを考えて そういった言葉を口にしているのではないだろう。
そうではないはずだと信じるために、氷河は恐る恐る瞬に尋ねてみた。
「瞬、おまえ、怒ってる……のか……?」
「え? 何を?」
瞬が、瞳をきょとんとさせて、氷河に反間してくる。
ためらいながら、氷河は言葉を継ぎ足した。
「いや、つまり……だから、俺はおまえを泣かせてしまったし、おまえが泣いているというのに意地を張って部屋ごもりを続けたし、その理由というのも、おまえのためというよりは 俺自身の恰好つけのためだったし……」
「なんだ、そんなこと」
氷河の懸念を瞬は一笑に伏した。

「怒るっていうより、どっちかっていうと、僕、ちょっと悲しかっただけ。でも、そんなこと、もうどうでもいいんだ。氷河の顔を見たら安心しちゃった。僕があんなに取り乱しちゃったのは、いつも側にいてくれる氷河が側にいてくれなくて、不安になってただけだったから。こうして氷河が一緒にいられるなら、僕、そんなことどうだっていいんだ」
氷河と離れていた2日間、瞬は余程心細かったらしい。
再び巡り会うことのできた恋人に、天上の天使もかくやとばかりの優しい微笑みを投げかけてくる瞬に、氷河は目を細めた。
「本当にすまなかった。風邪が治ったら、一週間分まとめて謝るつもりではいたんだ。俺は、こんな顔をおまえに見せて、おまえに愛想を尽かされることだけは避けたかったんだ」
「顔? 氷河って、変なこと心配するんだね。僕、氷河の顔なんか好きになったわけじゃないのに」
「……」

瞬の物言いに何か引っかかるものを感じてしまうのは、考え過ぎ―― 一種の被害妄想なのだろうか?
氷河は、微かに顔を歪めた。
「あ、紫龍に頼んで、薬とか買ってきてもらお。あと、アンパンマンのヌイグルミとかも欲しいよね。並べて記念写真撮ろうね。きっとすごく可愛いよ! ほっぺが そっくり! まるで双子みたい」
「……」
瞬の瞳は美しく澄み渡り、その微笑みには邪気の影など一片もない。
「こうして氷河の側にいられるだけで、僕、すごく嬉しくて安心するんだ。氷河、もう、あんなことしないでね。僕、変な顔になっちゃった氷河と一緒にいることの百倍も、一人でいることの方が嫌なんだからね」
「……」
「顔が変ちくりんになっちゃったって、そんなに気にすることないんだから。そんな 気に病むほど変わっちゃったわけじゃないし、もともと そんな 大した顔でもなかったじゃない。僕、氷河の顔がどうなっちゃったって、氷河のこと大好きだよ!」
「……」

ただの一度でもこの丸顔を見られてしまったら、金輪際 瞬の前でクサいセリフの一つ、気障なセリフの一つも言えなくなるだろうと、それを怖れて、氷河は今回の岩戸ごもりを断行するに至った。
だが、どうやら瞬は、恋人の顔の造作の良し悪しなどには 毛ほどの価値も抱いていなかったらしい。
恋人を力づけるために必死になって、『氷河の顔なんて 大したものじゃない』と繰り返す瞬に、氷河のプライドは粉々、ぐちゃぐちゃ、滅茶苦茶に粉砕されてしまったのである。

瞬の瞳は、恋人と二人でいられることを喜び、明るく幸福そうに輝いている。
その言葉に氷河を責める調子は全くなく、慈愛と思い遣りと優しさに満ちている。
氷河は思わず枕に顔を突っ伏して、このたびの岩戸ごもりを深く反省し、今後 何があろうとも瞬に逆らうような真似だけはするまいと、固く心に誓ったのだった。
瞬の優しさ、思い遣りの心、恋人の愚行を許す寛大さ、そして純粋な恋心は、世の何物よりも強くたくましく破壊力に満ちている。
粉微塵に砕け散った己れのプライドを胸に、氷河は、これまでどんな高名な科学者にも哲学者にも証明できなかった一つの命題に思いを馳せることになったのである。
『正義や愛や優しさは、悪や憎悪や冷酷より強い』という、人類が長きに渡って抱いてきた大河ロマン的幻想は、もしかしなくても真実なのだ――と。






Fin.






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