瞬はそれまで外人さんに会ったことがなかった。 だから、人間の髪は黒いものだと信じていた。 世間には赤い髪の人や青い髪の人もいるにはいるが、そういう人は皆、他人を笑わせるために、わざわざ絵具で髪を染めているのだと思い込んでいた。 故に、 (……僕や一輝兄さんと変わんないくらいちっちゃい子供なのに、この子はもう人を笑わせるお仕事をしてるのかな?) というのが、初めて氷河に会った時の瞬の感想だった(あながち間違いではない)。 だが、ほどなく瞬は、氷河がそんな職業に就いているわけではないこと、氷河がそんな職業に就きたくても就けないほど無愛想なこと、そして、氷河の金色の髪は絵具で染めたものではないということを知ったのである。 (生まれた時からこんな色の髪の人がいるんだ、すごーい) 氷河の金髪が作られたものではないことを知った瞬は、そして、氷河の髪に触ってみたいと熱望するようになった。 熱望はするのだが、なにしろ相手は異人さんである。 人種が違うのである。 近づいていったら噛みつかれるかもしれないし、食べられてしまうかもしれない。 それが、瞬は恐かった。 氷河は、日本語を知らないのかと思うくらい無口だったし、時々瞬をじっと見詰めている時の眼差しも、優しく穏やかとは言い難いものがあった。 しかし、だが、それでも。それでも、なのである。 瞬は氷河の髪に触ってみたくて仕方がなかった。 訳の分からないトレーニングに駆り出され、投げ飛ばされたり蹴倒されたりして くすんくすん泣いている時にも、瞬は、脳裏の奥で、あの金色の髪に思う存分触ることができたら、こんな痛みや辛さも平気と思えるようになるに違いないのに――と考えながら泣いていた。 これはもう、ほとんど信仰に近い。 曼陀羅を見て来世の保証を得たと信じるチベット仏教徒、妙法蓮華経を唱えれば極楽に行けると信じる日蓮宗徒、免罪符を手にすれば全ての罪から逃れられると信じたルター以前のキリスト教徒、一億円が当たれば人生大抵のことはけりがつくと思っている日本人。 彼らと同じように瞬は、氷河の金髪に触りさえすれば、全ての問題が解決し、どんな苦しみも苦しみでなくなると、信じてしまったのである。 信じはしたが、それでもやっぱり氷河は恐い。 恐くて、とても近づけそうになかった。 しかし、だからといって、ここで諦めてしまうわけにはいかない。 勇気を出して手を伸ばせば、すぐ届くほど近くに救いの主はいるのである。 3日ほど考え抜いて、瞬は、3日も考えた割りにはありきたりな手段に訴えることにした。 瞬は、氷河に手紙を出そうとしたのである。 たかが手紙と侮るなかれ。 言葉と違って手紙は後に残るものだから、作法に適い、上品かつ印象的な文章を書かねばならないということを、お利口な瞬はちゃんと知っていた。 で、またしても瞬は3日3晩考え抜いて、考え抜いた割りには実にあっさりした手紙を書きあげた。 『 こんにちは。ぼく、瞬です。 ぼくは氷河をとってもきれいだとおもっています。 ぼくは、氷河といっぱいおはなしをして、氷河のかみにさわってみたいです。 おへんじください。 瞬 』
薄い薔薇色の封筒に、どきどきしながら鉛筆で宛名を書いた手紙を持って、瞬は、星矢の許に駆けつけた。 瞬は、氷河の髪には触りたかったが、恐いものには近寄りたくなかったので、星矢に手紙を渡してもらおうと思ったのである。『虎穴に入らずんば、虎児を得ず』などという格言を、瞬は全く知らなかった。 「星矢、あのね。この手紙、僕からだって言って氷河に渡してくれない? 氷河、恐いから、僕、近寄れないんだ」 「へ?」 ちょうどおやつを食べ終わったところで機嫌の良かった星矢は、首をかしげながらも、その手紙を受け取った。 星矢がおやつを食べていた十人掛けのテーブルの、星矢の右隣りには氷河がいたし、左隣りには紫龍が、真正面には一輝がいた。 皆で、ここ数日瞬がおやつの時間にも部屋から出てこない訳を、一輝に尋ねていたところだったのである。 一気に謎が解け、そして、謎は更に深まった。 「氷河へのラブレター書いてて、部屋から出てこなかったのか? 瞬、おまえ」 「ふつー、恐くて近寄れない相手にそんなもの出すかぁ?」 「瞬が普通なわけないじゃん。一輝の弟なのに」 「そりゃそーかもしんねーけどさー」 「それは、ラブレターなんかじゃあない。決闘状か何かに決まっている!」 星矢と邪武が二人して謎を深めあっているところに、突然紫龍が割り込んできて、断言する。 星矢たちの会話を聞いていた一輝が眉をつりあげるのに気づいた彼の、それは、とりなし的発言だった。 が、紫龍の機転は無駄だったし、無意味だった。 紫龍の言葉は、恐くて近寄れない相手に決闘状を出す馬鹿はいない――という大前提を無視した意見だったし、一輝にしてみれば、それがラブレターだろうが決闘状だろうが、どうでもいいことだったのだ。 瞬が誰かのためにおやつも食べずに一生懸命何かをしているという、その状況が、既に一輝には許し難いものだったのである。 「氷河っ! 貴様、油断も隙もない毛唐だなっ! 瞬に手を出す奴はただじゃおかないと、最初に言っといたはずだぞ、俺はっ!」 傍らにいる瞬と星矢をやりすごし、つかつかと氷河の側に歩み寄った一輝は、悪鬼のごとき形相で氷河の胸ぐらを掴みあげた。 「……」 瞬に手を出すどころか、指を出したこともない氷河にしてみれば、一輝の言いぐさは言いがかり以外の何物でもなかったのだが、暇を持てあましていたのか、興が乗ったのか、氷河は弁解らしい言葉を一言も口にせず、挑戦的な目で一輝を睨みつけた。 「いい根性だ」 吐き出すような一輝の台詞を合図に、ボカ、ドカ、グシャと殴り合い蹴り合いが始まる。 おやつ後のテーブルがどうなろうと知ったことではない星矢がのほほんと構えている横で、紫龍が大声で邪武に命じた。 「おい、邪武! 瞬を殴って泣かせろ! 一輝の注意を氷河から逸らすんだっ!」 「えっ? あ、そーか。分かった」 有無を言わせぬ紫龍の命令に、邪武が反射的に従う。それで事態がどう変わるのかを考えもせずに。 邪武にぽかっと頭を殴られた瞬は、途端に、 「うわあ〜〜ん、邪武が僕をぶった〜〜っ !! 」 と泣きだし、一輝は氷河を放っぽって、今度は邪武に殴りかかっていくことになった。 どうしてそうなるのか訳も分からずにダイニングから逃げ出す羽目になった邪武を、一輝が追っていく。 投げられた骨を追う犬のように兄がダイニングを走り出ていくと、瞬はぴたりと泣きやんだ。 そして、星矢の脇腹を、つんつんと人指し指でつつく。 骨と犬の一幕にあっけにとられていた星矢は、はっと我に返ると、思い出したように、手にしていた瞬の手紙を、生傷だらけの氷河に、 「氷河。これ、瞬から」 と言って手渡した。 切れた唇の血を拳で拭いながら立ち上がった氷河が、表情もなくそれを受け取る。 手紙が氷河の手に渡ったのを確かめると、瞬は今更ながらではあるが恥ずかしそうに頬を染め、たたたたたっとダイニングルームから走り去っていったのだった。 |