それから数日、瞬は思い切り落ち込み、自室にこもって日々を過ごした。
氷河に嫌われたままだということが、何故こんなに辛いのかが理解できないまま、だが、瞬の心は沈んでいく一方だった。
瞬とて、もう子供ではないのである。
人が人を嫌う、自分が誰かに嫌われる――ということが、“ありえないこと”ではないことも、ちゃんと知っていた。
氷河の髪に触っても、何の奇跡がもたらされるわけではないということも分かっていた。
氷河の髪に触るのなら、十二宮戦・天秤宮で好きなだけ触ることができたし、それでも事態は何も変わらなかった。
今も氷河は瞬を嫌ったまま、なのだ。

(星矢じゃあるまいし、奇跡なんかそうそう起こるものじゃないよね……。ましてや、僕の望んでいる奇跡は、人の心のことだもの……)
むしろ、年月を経た今でも子供の頃と同じように氷河にこだわっている自分の方がおかしいのだと、瞬は自分をあざ笑った。

(大丈夫。嫌いだから仲間じゃないってことはないはずだもの。それだけでいいや、僕……)
無理に自身にそう言いきかせて、瞬は、なんとか落ち込みの淵から這い上がったつもりになった――のだが。
落ち込むこと数日、立ち直った気になって自室から出た途端、瞬は氷河に会ってしまったのである。

もっとも氷河は、平和な毎日が気だるいのか、ラウンジの長椅子にごろりと横になり惰眠を貪っていて、瞬がそこにやってきたのには気づいてもいないようだったが。
大きく庭に開かれたガラスのスライドドアは、小春日和の日光と微風を部屋の中に招き入れている。柔らかい秋の昼下がりの日差しを受けて、氷河の髪はきらきらと輝いていた。

この髪に触れば奇跡が起こって、どんなに辛いことも苦しいことも霧のように消えてしまう――何の疑問もなくそう信じてしまえた子供の頃のあの気持ちを、瞬は切なさと共に思い出した。
(あれは、子供の他愛ない思い込みだったけど、そう思ったって不思議じゃないくらい綺麗な髪だよね……)
瞬が、そっと指先を氷河の髪に伸ばす。
もしかしたら今度こそ奇跡が起こるかもしれない――そんなことを考えてしまう自分を胸中で笑いながら、それでも幾許かの期待を完全に打ち消してしまえないまま、瞬はゆっくりと奇跡の源に触れようとした。

人指し指の先が、氷河の髪に触れる。
途端に瞬は、その手を氷河に掴みあげられていた。
「おまえもガキの頃と変わってないじゃないか」
「氷河!」
瞬は慌てて手を引っ込めようとしたのだが、氷河は掴んだ手を放そうとはしなかった。
「狸寝入りしてたんですかっ」
「おまえの気配には敏感なんだ、俺は」

しっかり覚醒しきった目を瞬に向け、その姿を視線で捉えたまま、氷河は横にしていた体を起こした。
「この手、放してくれませんか。痛いんです」
瞬の抗議を、氷河は無視した。
「おまえ、ずるいぞ。俺は我慢してるのに、自分だけ俺に触ろうとするなんてのは」
「その痴漢みたいな言い方、やめてください! 氷河が何を我慢してるっていうんですか」

瞬は、強い口調で氷河を怒鳴りつけた。
子供の頃と変わらずに、自分が氷河の髪に奇跡を求めていることを、氷河に知られてしまいたくはなかった。
「我慢してるだろーが」
「だから、何をです」
「手紙に書いただろ。俺は、おまえにあの返事を出した時と同じ気持ちでいるんだよ」

触れてほしくないことに触れられて、瞬は冷静さを失った。
氷河に嫌われているという事実を認識することと、氷河に直接『嫌いだ』と言われてしまうことは、微妙に、否、はっきり違うのである。
嫌われていると自覚できているからといって、直接『嫌いだ』と言われて傷つかないわけではないのだ。

取り乱して、瞬は叫んでいた。
「何を書いたっていうんです! 僕みたいな泣き虫、大嫌いだとでも書いたんですか! 僕、最近泣いてないでしょっ!」
氷河に『おまえなんか嫌いだ』と言わせないために、瞬は自分でその言葉を言ってしまっていた。
途端に、氷河が変に顔を歪める。
瞬の手首を掴んでいた手を放し、氷河は探るように瞬の顔を覗き込んだ。

「おまえ……あの手紙をちゃんと読んだのか……?」
「え……?」
氷河に尋ねられて、瞬は返答に詰まった。
『読んだのか?』と尋ねられれば、『読んでいない』と答えるしかない。
瞬にとって、あれは、自分が氷河を嫌いにでもなれない限り、決して読めない手紙だったのだ。

「読んでない――のか?」
氷河が何故か脱力した様子で、再び尋ねてくる。
瞬は、罪を見とがめられた罪人が居直るように、虚勢を張った。
「だ……って、だって、どうせ、僕のこと大嫌いって書いてあるんでしょ! そんなの読みたくなかったんだものっ!」

氷河が、ますます疲れたような顔になる。
「――ほんとに読んでないのか? あの手紙のせいで俺を避けてたんじゃないのか?」
「……?」
氷河は何やら情けなさそうに、瞬を見ている。
瞬は首をかしげた。
いったい、氷河からのあの手紙にはどんなことが書いてあったのだろう?
『おまえなんか嫌いだ』以外のことが書かれていたのだろうか――?
瞬は初めて、あの手紙の内容を知りたいという欲求にかられた。

たとえ死んでも読みたくないと思っていたあの手紙――“あの手紙のせいで俺を避け”るようなことが書いてあるには違いないが、どうもそれだけではないらしい。
瞬は意を決した。
昨日までかかって氷河の髪への未練は断ち切ったのだから、あの手紙にどんなことが書かれていようが、耐えられないはずはないと、瞬は自分を叱咤した。

そして、瞬は、くるりと向きを変えラウンジを飛び出して自室に向かった。
部屋の隅に置いてある聖衣ボックスの底に隠しておいた手紙を、恐る恐る手に取る。
氷河が、瞬の後を追い、背後に来ていた。
水色の封筒の封を切り、三つに折りたたまれた水色の便箋を広げる。

そこには、
『おまえがおれに、おれのさわりたいとこ、どこにでもさわらせてくれるなら、おれのかみにさわってもいいぞ。
氷河  』

という一文が、大胆不敵なほど下手くそな字で書かれていた。
瞬は書いてあることの意味がすぐには理解できず――否、理解したくないのに理解できてしまったために、混乱しまくっていた。
「おい……瞬……?」
手紙を読むなり一言も発せずに呆気にとられている瞬を訝って、氷河が声をかけてくる。
それではっと気を取り直した瞬は、震える声で一人言のように言った。

「だ……って、氷河、僕のこと、泣き虫の嫌な奴だって、兄さんに言ってたから、僕のこと嫌いだって書いてあるんだと……」
「そりゃ、一輝の前ではおまえのこと嫌いな振りするしかなかったからな。でなきゃ、一輝の奴、俺がおまえに近づくのを邪魔するに決まってるだろ。あの一輝に言えるか? 手紙もらうずっと前から――初めて会った時から、おまえのこと可愛いって思ってた、なんてこと」
「……」
それは確かにそうかもしれない。
あの頃の一輝に――今の一輝も大して変わらないが――そんなことを言っていたら、金輪際朝の挨拶をすることもできなくなるほど、一輝は二人が近づくのを妨害しまくっていたに違いない。
「おまえ、ほんとに読んでなかったのか? 俺はてっきり、おまえに触りたいなんてこと書いたから、避けられてるんだとばかり……」
「……読んでませんでした」

瞬の肩は微かに震えている。
氷河の心の奥底に、ちらりと小さな火が灯った。
それは、希望の光、もしくはハッピーエンドの予感とでもいうべき小さな灯だった。
(瞬は、俺を嫌って避けていたわけじゃなくて、俺に嫌われていると思い込んで避けていただけだったんだ)

氷河を見上げる瞬の目は微かに赤みを帯びている。
瞳の奥に涙をたたえたような、氷河の好きなあの眼差しを、瞬は氷河に向けていた。
「瞬……」
希望に燃えて、氷河が自分の右手を伸ばし瞬の肩を抱こうとした――その時。
瞬は突然、氷河の手紙をびりびりと破り捨てた。――瞳に涙をたたえて。

「こ……こんな手紙っ! こんな手紙のために、あの苦しい修行を耐えてたなんてっ! ああ、もう、自分が情けないっ!」
瞬が大声でわめき始める。
瞬の瞳が潤んでいたのも、その肩が震えていたのも、恋の成就の予感のためではなく、どうやら怒りのせいだった――らしい。

「こんな手紙! こんな手紙っ! こんな手紙を後生大事にしてたなんてっ!」
「お……おい、瞬……?」
瞬の剣幕にあっけにとられながら、氷河がお伺いをたてる。
「なんですかっっ!」
瞬は、まるで、親の仇を見るような目で氷河を睨み、睨まれた氷河は少しばかりたじろいだ。

「あ……いや、その……おまえ、つまり……おまえ、俺を好きなんじゃないのか……?」
「氷河って、馬鹿ですかっ。好きじゃない人にあんな手紙出すわけないでしょっ!」
随分な言われようだったが、それでも氷河はほっとした。
瞬に嫌われているわけではないのなら、希望が現実になりかけているという自分の認識は間違っていないのだ、と。

で、再び気を取り直し、氷河はまっすぐ瞬を見詰め、見降ろし、目一杯艶っぽく迫り始めた。
「俺は……いや、俺もおまえが好きだったんだ。もうずっと、ガキの頃から。おまえに手紙を貰う前から」
凄絶に色気を込めた流し目も、さりげなく瞬の腰にまわされた腕も、氷河の望むような効果を瞬に与えはしなかった。

瞬が拳を握りしめ、悔しそうに唇を噛む。
「そういう台詞を支えにあの修行を耐えたのだったら、まだ恰好もついたのに、よりにもよって、『触りたいとこ、触らせろ』だなんて、ただの変態じゃないですかっっ!」
「ぐ……」
本当に、随分な言いぐさである。
瞬に変態呼ばわりされるのには、さすがの氷河も結構傷ついた。
(そんな変態かっ !? 普通だろっ)
言い返したいことはいくらでもあったのだが、そこは惚れた弱み、重要なのは、客観的・一般的基準でみて変態かどうかではなく、瞬がどう思っているか、なのだ。

「あのな、瞬。別に、そんな急に全部触らせろっていうんじゃないんだ。ちょっとずつでいいから……」
好きなら、側にいて見ていたいし、見ていたら触れたくなる――それは、氷河の判断基準でみればごく普通のことだった。
瞬の基準でも普通のことだから、瞬自身も『氷河の髪に触りたい』と思ったはずなのである。
そんな氷河の思いを、しかし、瞬は全く気にとめていなかった。
しっかり、完璧に無視した。

「ごめんなさい、氷河。僕、目眩いがするから、横になりたいんだ。出てってくれない?」
「え? ああ、それなら、俺が看病してやる」
氷河の(下心でいっぱいの)親切も、瞬は全く聞いていない。
「ああ、もう、僕、これまでの人生を全部否定された気分。氷河に嫌われてるってことだけが、僕の生きる支えだったのに。僕、これから、何を支えに生きていけばいいんだろ」
氷河の好意がよっぽどショックだったらしく、瞬の足元はふらついている。
「そりゃ、おまえ、俺との愛を支えにだな――」
食い下がる氷河を廊下に押し出し、瞬はバタンと音をたててドアを閉じてしまった。
氷河は、目の前で閉じられたドアを呆然と見詰めることになってしまったのである。

こんなアホらしい展開があっていいものだろうか。
数年の年月を経て、やっと相思相愛だと分かった感動の瞬間の直後、愛する恋人を閉め出し寝込んでしまう人間がどこにいるだろう。
「しゅーん! おーい、瞬ちゃーん。せめて髪だけでもいいから触らせてくれ――っっ」
氷河と瞬が互いの気持ちを確認し合った記念すべき日、氷河の情けない声だけが城戸邸の廊下に空しくこだましていた。






Fin.






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