あるうららかな春の日。 瞬は城戸邸の氷河の部屋をせっせせっせと掃除していた。 別に誰に命じられたからというのでもない。 瞬はただ掃除が好きだったのである。 氷河は服でも本でもそこいら中に放り投げておく癖があったので、それらを本来の場所に戻し、テーブルや窓ガラスを丁寧に拭き、シーツや毛布カバーを取り替える。 そうやって綺麗になった部屋を見るのが、瞬は大好きだった。 どうせすぐにまた氷河は本を出しっぱなしにするのに――などということを、掃除好きの瞬は考えない。 考えないからこそ掃除好きでいられるというべきなのかもしれなかったが。 ともかく、そうしてすっきりした部屋を見渡して、瞬は大満足した。 だが、掃除を終えて掃除機やモップを片付けようとした時、瞬は大失敗をしでかしてしまったのである。 モップの柄でキャビネットの上にあった小さなミラースタンドを払い落としてしまったのだ。 フローリングの床に音を立てて落ちたそれは、銀色の光を撒き散らして粉々に砕けてしまった。 「あ……!」 慌てて床に膝まづいた瞬は、しかし、粉々の鏡を前に何をすることもできなかった。 それは特に大事な品というのではなかったし、特別な思い入れのあるものでもなかった。 城戸邸で生活する聖闘士たちの部屋にはそれぞれ洗面所がついていたし、ドレッサーもある。 いつ、なぜ、誰が、何のためにそんなところに鏡を置いたのか、瞬はそれまで考えたこともなかった。 だが、ともかく、そこに鏡があり、瞬がその鏡を割ってしまったというのは、厳然たる事実である。 もしかしたらこの鏡は氷河の大切なものなのかもしれない。 たとえそうでないにしても、一度は氷河の姿を映したことのある鏡に違いない。 だとすれば、それは、それだけで、瞬にとってはとても大事な鏡だった。 「ど……どうしよう……僕……」 砕けた鏡の破片を一つ一つ拾いあげながら、瞬はその破片の上にぽつりと涙の雫を一粒こぼした。 その時、である。 突然辺りが銀色の光で覆われ、その眩しさに瞬は反射的に瞳を閉じた。 それから恐る恐る目をあけると――そこには、身体の線がすけすけの白い寛衣を着た、見たこともない一人の若い女性が立っていたのである。 神話の時代――というよりは、19世紀ナポレオン帝政時代のシュミーズ・スタイルをした彼女は、そのはしたない恰好にあっけにとられている瞬に向かって、にっこりと微笑んだ。 「瞬ちゃん。私は鏡の精です。割れた鏡を嘆くあなたの綺麗な涙に免じて、この鏡を元に戻してあげましょう」 「あ……え……? あ……あの……」 瞬の涙は、鏡の精の突飛な恰好に驚いたせいで、その時にはすっかり止まってしまっていたのだが、彼女にはそんなことはどうでもいいことだったらしい。 彼女は一人でどんどん話を進めていく。 「そんなに鏡を大事にしてくれて、とても嬉しいわ。だから、ご褒美にこのコンパクトをあげましょう」 「あ……は……はい、どうも……」 「これは魔法のコンパクトなのよ。テクマクマヤコンテクマクマヤコンと呪文を唱えて、なりたいものをコンパクトに言うと、何にでも変身できるの。元に戻る時の呪文は、ラミパスラミパスルルルルル」 「あ、そうなんですか……」 「ええ、そうなの」 そう言って鏡の精が瞬に手渡したのは、バンダイかタカラあたりが売り出しそうな、いかにもおもちゃおもちゃしたピンク色のコンパクト――である。 「あ、でも、僕、今でも聖闘士に変身できるし、別になりたいものなんて……」 「あら、いいのよ、お礼なんて。でも、悪いことには使わないでね。私にも立場ってものがあるから」 瞬の話など全く聞いていない鏡の精は、言いたいことを言い終わると、さっさと煙のように姿を消してしまった。 「あ……あの、でも、だから、そうじゃなくって……」 戸惑いつつ手の平の上のコンパクトを見詰めていた瞬が顔をあげた時には、そこに鏡の精の姿はなく、ただキャビネットの上に割れたはずのミラースタンドがあるだけだったのである。 |