「おい、おまえらっ! 小人を――小人を見なかったかっ!?」 ここに戻るまでに、あちこち捜しまわってきたのだろう。 氷河のジーパンや手は土埃でひどく汚れていた。 尋常でなく青ざめた氷河を見て、だが、星矢と紫龍はのんびりしたものである。 「小人? 何を言いだしたんだ、おまえは。そんな、アル中みたいなことを――」 「あ、それは違うな。氷河はアルコール中毒なんかじゃなく、アレ中毒」 「見ろ。おまえのせいで星矢までスレてきてしまった」 溜め息混じりの紫龍の嘆きになど付き合っていられない。 氷河はそれどころではなかったのだ。 「そんなことはどーでもいいっ。瞬を見なかったかと訊いているんだっ!」 「瞬? 捜してるのはコビトじゃなかったのかァ?」 紫龍たちの悠長な反応が、一層氷河の気を苛立たせる。 「やっぱ、アレ中毒でおかしくなったんだな。若いうちからアレに耽溺すると、身体だけじゃなく精神上も良くないって言うよなー」 勝手に決めつける星矢の頭を、氷河は力いっぱい精根込めてガツン! と殴りつけた。 それでようやく、星矢たちは、氷河の様子がいつもと違うことに気付いてくれたのである。 「俺たちに本気で腹を立ててる時間があったら、瞬を押し倒してた方がずっとマシ――ってのが信条のおまえが、いったいどーしたんだ? 瞬に何かあったのか?」 星矢と紫龍の二人は、氷河は軽蔑していたが、瞬には好意を持っていた。 瞬の身に何かあったのだとしたら、それはもちろん放ってはおけない。 やっと緊迫してくれた星矢と紫龍に、氷河は事の次第を説明した。 その結果氷河が手に入れることができたのは、しかし、仲間たちの更なる軽蔑の眼差しだけだったのである。 「おまえが言うとリアリティが全くないが、瞬になら確かにそーゆーメルヘンチックなことも起こるかもしれない」 「クマのヌイグルミや氷河になって喜ぶってのは、瞬のしそうなことだよな」 「瞬以外にはしそうもないことだし」 「んじゃ、信じるか? 氷河の言うこと」 「まさか」 というのが、氷河の話を聞いた紫龍・星矢が出した結論だったのだ。 同じ時代に生を受け、これまで命をかけて共に闘い続けてきた仲間たちの冷たい態度に、氷河は彼らの協力を期待した自分自身の愚かさを自覚した。 だが、それも無理からぬことだとも思ったのである。 氷河自身、実際にあのコンパクトの力を見せられなければ、愛する瞬の言葉といえど魔法の力を信じられずにいたかもしれないのだ。 氷河は、すぐそこにあった針槐の幹に身体をもたせかけ、自分の右手で顔を覆った。 瞬がいないと気付いてから、この城戸邸に戻ってくるまでの路上で、氷河は、猫に会い、犬に会い、自転車とすれ違い、自動車とすれ違い、四、五人のガキ共と二、三人の大人たちに会った。身長七センチの今の瞬には、自転車が弾いた小さな石ころでさえ、巨大な落石に見えるだろう。 どこかにうまく逃れたとしても、いたずら好きの猫が昆虫と思い込んで瞬をいたぶり殺さないと、いったい誰に言えるというのだ。 「瞬……」 悪い想像に打ちのめされつつ、氷河は瞬の名を、まるで呻くように呟いた。 自分の人生がたった今終わったような苦しみに、彼は捕らわれていた。 そんなふうに自分の苦しみに手一杯の氷河は、だから、自分の足元で愛しの瞬が、 「氷河ーっ! 僕、ここだよーっ。気がついてーっ!!」 と叫び、ぴょんぴょん跳ねていることになど気付きもしなかったのである。 「俺の我儘のせいで……。もし瞬がこのまま見付からなかったら、俺はもう生きていられない……!」 苦渋をたたえて嘆く氷河に、瞬は胸が詰まるような切なさを覚えていた。 「そりゃ、そーだろーなー。なんったって、瞬限定のアレ中毒だもんなー」 氷河の苦渋、瞬の切なさをよそに、星矢は相変わらずお気楽そのものである。 「だが、俺はさっき瞬の小宇宙を感じたぞ? 病人のように弱々しいものだったが…」 紫龍の言葉に、星矢が笑いながら頷く。 「ははっ。きっと身体が小さくなってるから、小宇宙も弱っちくなってるんだろ」 いくら氷河の苦渋を見せつけられても、やはり星矢は氷河の言葉を信じる気にはなれずにいたのだろう。 もっともそれは、星矢にメルヘンを信じる純粋さが欠けているせいではなく、普段の氷河の生活態度の為せる技、ではあったろうが。 「いや、しかし、小宇宙ってのは、身体の大小とは関係ないものだろう。いつもの瞬を思いだしてみろ。瞬の小宇宙には段階があるんだ。瞬の小宇宙が弱っちいのは、瞬が本気になっていないからだと思うぞ。たとえばここに敵が現れて氷河を傷付けでもしたら、瞬の小宇宙は大全開だ」 と、紫龍が言い終わる前に、星矢のペガサス流星拳が氷河に向かって炸裂していた。 油断していた氷河が十メートルも吹っ飛ばされるのと、瞬の小宇宙が爆発するのがほぼ同時。 「瞬っ !! 」 紫龍と星矢、そして頬に長い傷のできた氷河が、地面に視線を落とす。 そこに、強大無比の小宇宙を発する可愛らしい小人の聖闘士の姿があった。 半分いざるようにして、氷河がピンクの小宇宙の源に近寄る。 「瞬……!」 氷河の声は掠れ、その手は小刻みに震えていた。 決して星矢の流星拳のせいではなく、極度の緊張と後悔から解放された安堵のために。 瞬がもし通常の大きさでいたら、氷河は力の限りに瞬を抱きしめていただろう。 だが今の瞬を抱きしめたら、その小さな身体はぺしゃんこに潰れてしまいかねない。 再び瞬に出会えた際限のない喜びの持っていき場を見付られないせいで、氷河は身体の震えを止められずにいたのだった。 細心の注意を払い、そっと小人の瞬を手の平の上に乗せる。 「うっわぁ、ほんとにこんなにちっこくなっちまって…!」 星矢が魔法の力を見せつけられて、今更ながらに驚きの声をあげる。 その横で紫龍もまた目をみはっていた。 「あ……」 氷河の震える手の平の上で、ふいに瞬の身体がよろめく。 星矢はじろりと氷河を睨みつけた。 「おい、しっかりしろよ、氷河。瞬が倒れちまうだろ!」 「うるさいっ! き……貴様らなんかに俺の気持ちがわかってたまるかっ! もう――もう会えないかと思っていたんだ……!」 氷河の怒声は、ほとんど涙声に近かった。 だが、それでも、星矢と紫龍には氷河への同情心は湧いてこない。 (元はと言えば、てめーの独占欲のせいだろーが…!) 氷河の考えていることなど、星矢たちには手に取るようにわかっていた。 氷河という男は、独占欲とスケベ心だけでできている男なのだ。 だが、さすがに星矢も紫龍も、瞬の前でそのことを指摘することはできなかった。 なにしろ瞬は、氷河とは正反対、純愛とメルヘンでできている人間なのだから。 「ま、なんにせよ、良かった良かった。早く瞬を元の大きさに戻してしまおう。氷河、その魔法のコンパクトとやらを出せ」 「あ……ああ」 紫龍の提案に、氷河は即座に頷いた。彼は、早く瞬を元の大きさにして、その身体を抱きしめてやりたかったのだ。――のだが。 「……おい、氷河。これがその魔法のコンパクトなのか? 本当に?」 氷河がパンツのポケットから取り出したピンクのコンパクトを受け取り、その蓋を開けて中を覗き込んだ紫龍が、おもむろに眉を曇らせる。 「ああ。でなかったら、なんでこの俺がそんなものを後生大事に持ってるもんか。さあ、早く、それを瞬の前に…」 紫龍はいかにもおもちゃおもちゃしたコンパクトに呆れているのだろうと氷河は思ったのだが、事実はそうではなかった。 紫龍が、コンパクトの鏡の部分を氷河と瞬に向ける。 向けられた二人は――二人は、そうして、紫龍の怪訝そうな態度の訳を理解したのである。 「わ……割れてる…… !? 今の流星拳のせいかっ !? 」 「ラ……ラミパスラミパスルルルルルー」 氷河と瞬は二人して鏡を食い入るように覗き込んだ。 瞬が魔法の呪文を口にする。 だが、変化は何も起こらなかった。 瞬は、相変わらず氷河の手の平の上にちょこんと乗っていられたのである。 「ラミパスラミパスルルルルルー」 瞬は幾度も呪文を繰り返したが、鏡の力は既に失われてしまっているらしい。 もう一度呪文を口にして、それでも何の変化も起こらないことを知ると、瞬は氷河の手の平の上にへたりこんでしまった。 「お……俺のせいだ……。俺が小人になれなんて馬鹿なことを言ったせいで……」 その瞬の耳に、氷河の苦しげな呻き声が聞こえてくる。 その苦渋に満ちた声を聞いて、瞬ははっと我に返った。 今は、自分の受けた衝撃に打ちのめされていていい時ではない。 自分のせいでこんな事態を招いたと考え苦しんでいる氷河を励ましてやることが、何よりも重要なことなのだと、瞬は健気にも考えたのである。 「氷河……! 氷河、僕、平気だよ……! 小さくても小宇宙は燃やせるってわかったし、これからもみんなと一緒に闘うことはできるもの。氷河のせいなんかじゃないよ。そんなに自分を責めないで。ねっ、氷河……!」 無理に笑顔を作って、瞬は氷河に向かって一生懸命アリンコの声をはりあげたのだが、その慰めは少しも効力を発揮しなかった。 氷河は闘いのことなど、全く考えていなかったのである。 彼が考えていたのは――彼が悩み苦しんでいたのは、つまり要するに、瞬と過ごす夜のこと、だったのだ。 「僕、平気だよ、氷河。ほんとだよ」 瞬は、苦悩の氷河を必死になって励まし続けた。 本当は、瞬が鏡に涙を一粒こぼせば、それで鏡は元に戻るのだが、氷河を苦しめないために、今の瞬は泣くことだけはできなかったのだ。 だから――氷河のために泣きたいのをこらえ、一生懸命笑顔を作って、瞬は、 「大丈夫だよ。平気だよ」 をいつまでもいつまでも繰り返していたのである。 その夜、氷河と瞬がどういう夜を過ごしたのか、誰も知らない。 Fin.
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