夕べは――僕と氷河と兄さんとで、ラウンジでお茶を飲んでたんだ。 けど、兄さんがいつもの悪い癖出して、ちょっとしたことで氷河に突っかかっていって喧嘩になりそうだったから、兄さんをラウンジから連れ出した。 11時ちょっと前くらいだったと思うよ。 兄さんを兄さんの部屋に連れてって、「氷河の側に近寄るな」って小言を10分くらい聞かされて、それから兄さんの部屋を出た。 そしたら、ちょうどラウンジから引きあげてきたところだったらしい氷河に会って……僕がしょんぼりしてたから、氷河は慰めてくれたよ。 兄さんの嫌がらせなんかちっとも気にしてないから、おまえも気に病むな――って。 僕、ちょっと傷付いたんだ。氷河の慰めに。 兄さんがどうしてあんなに氷河を目の敵にするのか、僕、知ってたから。 兄さんは、僕が氷河を好きなこと知ってて、だから、僕から氷河を遠ざけようとしてるんだって。 自分だけが目の敵にされてる訳に気付いてくれてたら、氷河も僕の気持ち、薄々わかってくれてるんじゃないかなぁって、僕、勝手に期待してたから。 でも、氷河はそんなこと考えたこともなかったみたい。 僕は、ずっと――ずうっと氷河が好きだった。 誰にも言ったことなかったけど、ほんとにずっと。 兄さんでさえ気付いてる僕の気持ちが、どうして当の本人には通じないのかって、僕、じれたんだ。 勝手だよね。 拒絶されるのが恐くて、一度も「好きです」なんて言ったことないのに、それをわかってくれないからって氷河を恨むなんて、逆恨みもいいとこ。 でも、僕、夕べも――夕べも、氷河に「好きです」って言えなかった。 男が男を、なんて……男の僕が、男の氷河にキスしてもらいたいとか、抱きしめてもらいたいとか思ってるなんて、そんなこと――そんなこと言う勇気はどうしても……。 僕、だから、卑怯な手を使ったんだ。 目に涙を浮かべてね、氷河にすがっていったの。 「どうして……どうして、兄さんはあんななんだろ。ごめんね、氷河。ほんとにごめんね」って。 嘘泣きのつもりだったんだけど、いつのまにか僕、本気で泣いちゃってたみたい。 もっとも、本心は、「どうして氷河は僕の気持ちに気付いてくれないの。こんなに僕は、こんなに氷河のことが好きなのに」だったけど。 氷河は僕を抱きしめてくれて、髪をなでてくれて、「泣くなよ、おまえのせいじゃない」って耳許で言ってくれた。 僕、うっとりして、それから、身体の奥がぞくりとしたの。 どうしても氷河が欲しい……って、僕、あの時、どうしようもなく思った。 兄思いで泣き虫で心優しい聖闘士なんて、そんな仮面捨ててでも、この氷河の腕に抱かれたいって――そう、僕、この氷河の身体が欲しいって思ってたんだ、あの時、多分。 でも、どうすればいいのかわからなくて、必死になって氷河にしがみついて――でも、氷河の身体を動かすことはできなくて。 だから、僕、心を先に絡めとってしまおうって考えた。 「兄さんは……俺と氷河のどっちが大事なんだって僕に訊くの。どっちも大事だよって答えると、それはどっちも大事じゃないって言ってるのと同じだって言って、僕を責めるんだ。僕、どうしたらいいのかわかんない。なんでどっちかを選ばなきゃならないのか、なんでそんなことでこんな苦しい思いしなきゃならないのか、わからない。アテナのために敵と闘ってる時の方が辛くなかったよ。どうして兄さんは、僕をこんなに苦しめるんだろう…」 そう言ってすがったら、氷河は僕に同情してくれたみたいだった。 「一輝のあれは、ただの我儘な独占欲だ。あまり深刻に受けとめない方がいい」 いつまでも泣きやまない僕を、氷河は自分の部屋に入れてくれて、椅子に座らせてくれて、そして、氷河は僕を力づけようとしてくれた。 「でも、僕、辛いもの。兄さんも氷河も、僕には大事な人だもの。兄さんと離れてたら寂しいのと同じくらい、氷河と離れてたら、僕、苦しい。すごくすごく苦しい……」 「瞬……」 氷河は、少なからず驚いてたみたいだった。 多分、氷河はそれまで、僕にとって兄さんはたった一人の兄さんだけど、自分は何人かいる仲間のうちの一人でしかないって思ってたんだろうね。 僕が――意識せずに氷河に恋してるんじゃないか……って疑念くらいは抱いてくれたんじゃないかな。 氷河は、ちょっと虚を衝かれたみたいな顔になった。 だから僕、だめ押しで言い募ったんだ。 「ね、氷河。苦しいの忘れる方法って、知ってる?」 「なに?」 「こないだね、紫龍が教えてくれたんだ。笑いながら言ってたから、ほんとかどうかはわかんないけど、僕に好意を抱いててくれそうな人に『僕を滅茶滅茶にして』って頼めば、きっと苦しいの忘れさせてくれるって。ね、氷河、その方法、知ってる?」 氷河は目を剥いて、それから、苦虫を噛み潰したみたいに顔を歪めた。 多分、紫龍が何も知らない子どもに馬鹿なこと教え込んだものだって、思ったんだろうけど。 そう、氷河は僕のこと、子どもだって思い込んでたんだ。 僕、もう16歳だよ。 子どもなんかじゃない。 常識で考えたらわかりそうなものじゃない。 なのに、兄さんも氷河も、多分、沙織さんや紫龍も、僕のこと、いつまでも泣き虫の子どもだって思い込んでるんだ。 「氷河、お願い。僕、苦しいの、もう嫌なんだ。氷河、その方法、知ってるんでしょ? 氷河、僕のこと、嫌いじゃないよね? ね、氷河、お願い。僕を助けてよ……!」 「そんなことができるか! おい、瞬、しっかりしろ。おまえ、思い悩みすぎておかしくなりかけてるんだ。気をしっかり持て」 氷河はなかなか陥落してくれなかったけど、それも無理ないよね。 僕、自慢じゃないけど、そういう艶っぽさって皆無の外見してるから。 あの時は、ほんと、氷河に迫る前に他の誰かに「滅茶滅茶にして」って頼んで、そっちの方の修行積んどけばよかったって思ったよ。 でも、僕、氷河以外の人に触れられたら気持ち悪くて、一生そんなこと厭うような人間になりそうだったから……氷河じゃなきゃ駄目だって、そう思ってたから……ううん、今でもそう思ってる。 あ、そう、氷河のこと、ね。 氷河は――。なんか、どんなに必死にすがっても、いつまでも理性の勝ってる氷河見て、僕、ほとんど絶望しちゃったんだ。 僕はこんなに氷河が好きなのに、氷河はそうじゃないんだ――って。 なんか、自分がみっともなくて、あんまり自分がみじめで、涙も止まっちゃってた。 案外、ほんとに僕、気が変になりかけてたんだったかもね。 氷河は――そんな僕を見て、表情もなく自失してしまった僕を見て、かえって不安になったのかもしれない。 「瞬?」 氷河に名前呼ばれても、僕は返事もできなかった。 氷河は、僕を同情で抱くことすらしてくれないんだって思ったら――それって、つまり、氷河は僕を好きでもなんでもない――もしかしたら、嫌ってる……ってことでしょう? 好きで好きでたまらない人に「おまえなんか嫌いだ」って言われたら、誰だってショックで何も考えられなくなるよ。 だから、僕、憶えてないんだ。 氷河がどうやって僕をベッドに運んでくれたのか。 どんなふうに僕の服を脱がせたのか、最初に僕のどこにキスしてくれたのか。 ふっと我に返った時にはもう、僕の身体はすっかり熱くなってて、僕の口からは喘ぎ声が洩れてた。 氷河は、僕の顔を見ないようにしてるみたいだった。 僕を避けて、でも、僕に夢中で――違うな、僕で自分を満たすことに夢中で。 うん、そう言う方が正しいね。 だから、僕が氷河の髪に指を絡めていったことにも、その腕に爪を立てられたことにも気付かないでいたみたい。 僕も、無意識にそうしてたんだろうけど。 あの時、僕の頭の中には、「嬉しい」って意識と「気持ちいい」っていう感覚しかなかった。 氷河を陥落させるのにはひどく手間取ったけど、一度陥落させてしまったあとは楽だったな。 氷河は、僕が望む以上のことをしてくれたよ。 僕、自分では、もう子どもじゃないってつもりでいたけど、やっぱりまだまだ子どもだったみたい。 人の欲望が――それとも、あれは それも僕の認識違いなのかな。 あれは氷河だから、なのかな。 氷河だけ特別? どっちにしても、まだまだ子どもの僕は、比較対照の相手を知らないから、断言はできないよ。 とにかく僕自身と比べたら、もう氷河は段違い。 これでも僕、自分では自分のこと、随分欲深だと思ってたんだけどね。 氷河はね、氷河は……僕を好きだからあんなふうにしてくれたわけじゃないよね。 それは、ちゃんとわかってる。 今考えると、僕って、かなりみじめだよね。 でも、氷河に抱かれてる時は、そんなこと考えなかった。 氷河が貪欲だと、それだけ僕は嬉しかった。あーんなにすごくされたら、氷河を突き動かしてるのは、僕への同情じゃないって思えたもの。 それって、氷河の欲、でしょ。 氷河がそうしたくてそうしてるんだって、思えたもの。 だから、僕は、幸せだったはずなんだ。 やっぱり、これって、僕の強がりかな。 嘘でもいいから、一言、「瞬、好きだよ」って、氷河にそう言ってもらえてたら、僕、素直に――そう、頬でも染めて恥じらいながら“ご報告”できてたんだろうね。 そっちの方が、紫龍も星矢も面食らわないでしょう? 紫龍たちのイメージしてる僕らしい僕だよね……。 ん、そんなことはどうでもいいことだね。 そう、結局、朝までずっとそんなふうでした。 氷河、眠らないんだもの。 僕は、びっくりとぐったりの両方。 あ、でも、ぐったりしてたから、沙織さんを殺したりしてないなんて言うつもりはないよ。 僕、朝にはしっかり目が覚めた。 眠ってたわけじゃないから、意識を取り戻したって言うのが正しいのかな。 ううん、氷河がやっと眠ってくれたって言うのが、いちばん正確だね。 ともかく、僕の意識ははっきりしてた。 自分でも信じられないくらい冷静だった。 氷河を僕のものにできた嬉しさなんて、全然なかった。 僕、あんなことして、あんな小狡い手で氷河を騙して、あさましいことして、これからもし氷河が僕を避けるようになったらどうしようって考えて、急に恐くなった。 そんなの、僕には耐えられそうになかったもの。 僕――そうだね、やっぱり、僕、冷静でなんかなかった。 僕は、氷河のベッドから抜け出して――そうしたら、夕べのことは全部夢だったことにできるんじゃないか…なんて馬鹿なこと考えたんだもの。 おまけに僕ってば、そんな大変な状況だっていうのに、急に、夕べ氷河たちに出したお茶のカップを片付けなきゃ、なんてこと思いついて……。 氷河とのこと考えるの避けようとしてたのかもしれないけど、ともかく、僕、ラウンジに行ったんだ。 そして、沙織さんに会った。 そうだよ。僕が沙織さんを殺したの。 沙織さん、勘が良すぎるんだもの。 僕は、夕べのこと、なかったことにしちゃいたかったのに、沙織さんは――。 何を話したのか、ちゃんとは憶えてない。 ただ、沙織さんは、僕を蔑んだ目で見て、「汚らわしい」って、そう言った…。 そう。それだけだよ。 |