「……」
「……」
「兄さんが犯人なんじゃなかったのっ !? 」
「じゃあ、俺と瞬が見たのは、沙織さんを殺した貴様が逃げ去るところじゃなくて、ビールを買いに出掛けた貴様だったというのかっ!」
セリフは順に、星矢の沈黙、紫龍の沈黙、瞬の叫び、そして、氷河の怒声、である。

瞬の叫びと氷河の怒声で、星矢と紫龍はすべてを理解したのである。
瞬と氷河の嘘が、誰を庇うためのものだったのかを。
それは、実に意外な事実ではあった。
「――瞬はともかく、氷河まで一輝を庇ってあんな嘘をつくなんて、どういう風の吹きまわしなんだよ? いっつも角突き合いしてたくせにさぁ」
心底驚いた様子の星矢に尋ねられて、氷河がふいと横を向く。
「一輝なんかを庇ったつもりはない。俺はただ、一輝が前科者になったら、瞬が悲しむだろうと思っただけだ」

「氷河……」
氷河のぶっきらぼうな答えに、瞬の瞳が潤む。
それが一輝の気に障ったらしかった。
実のところ、氷河に庇われて前科者になるのを免れるくらいなら、無実の罪で絞首台にのぼった方がマシだ! というのが、一輝の偽らざる気持ちだったのである。
「ふん! 貴様なんぞに庇われるとは、俺も落ちたもんだ。いや、そんなことより! 貴様が何故そんな早朝に瞬と一緒にいたのか、そこのところをじっくり説明してもらおうじゃないか!」

自分が前科者になりかけていたことなど全く念頭にない一輝が、刑事ドラマの刑事よろしく氷河に詰め寄る。
しかし氷河には動じる気配すらなかった。
瞬が困ったように目を伏せる。
そんなふうな氷河と瞬と一輝とを見て、星矢と紫龍は固唾をのんだ。当然である。

もしかしたら――否、もしかしなくても、おそらく、多分、絶対に、昨夜瞬と氷河の間には特別な出来事があった、のだろう。
最愛の弟を他の人間に、しかも男に、よりにもよって氷河に取られた――などということを知ったら、一輝の怒りはいかばかりか。
まして、もし氷河の証言の沙織殺害以外の部分が真実なら、瞬は暴力で氷河に屈伏させられたことになるのだ。

星矢と紫龍の緊張になど気付いた様子もなく、むしろ静かな声で、氷河は一輝に告げた。
「わざわざ説明しなければならないほど特別なことがあったわけじゃない。この2年間、俺と瞬は毎日そうしていたんだ。貴様が寝入るのを待って会い、貴様が起き出す前に自分の部屋に戻る。俺と瞬はいつもと同じことを、いつもと同じようにしていただけだ。説明が必要なのは、おまえの行動の方だろう。いつもなら10時をまわっても起きてこないくせに、なんだって今日に限って早起きしようなんて考えたんだ、貴様は」
氷河の口調は淡々としたものだった。
兄の視線から逃れるように、瞬が氷河の腕に額を押しつける。
瞬が頬を染めているのが――耳まで赤くなってしまっているのが、紫龍たちには見てとれた。

一輝が、一瞬絶句する。
それから彼は、地獄の鬼のように瞳を見開き、眉をつりあげた。
「ひ……氷河、貴様……貴様、まさか……」
「ちょっと待ったぁっっ!!」
ここで一輝に怒りを爆発されてしまっては、氷河と瞬の証言の謎が解明されることなくうやむやになってしまう。
謎の解明のためには――自分の好奇心を満たすためになら―― 一輝の怒りなど屁でもない星矢が、氷河と一輝の間に割り込んでいった。

「喧嘩始める前に答えろよ、氷河。2年前からご昵懇の間柄って、じゃ、さっきの証言はいったい何だったんだよ!」
氷河に殴りかからんばかりの一輝を必死に肩で抑え込みながら問いただす星矢に、氷河は涼しい顔を向ける。
「夫婦や恋人同士が相手のアリバイを証言したって効力はないだろう。俺は瞬の恋人じゃない立場で、瞬を容疑者圏外に置かなければならなかった」
「……」
実にあっさりした、だが、言われてみれば実に納得できる理由ではあった。

呆けている星矢に気もとめずに、瞬が頬を上気させて氷河を見あげる。
「やだ。いつも一緒にいると、考えることまで似てきちゃうのかな。僕もね、同じこと考えたんだよ。氷河だけは無関係だったことにしなくちゃ…って。それでね…」
氷河が目を細め、瞬に微笑を返す。
「夕べが初めてだったことにした?」
瞬に向けられた氷河の声音は、星矢たちが違和感を覚えて背筋がぞわぞわするほど優しかった。
「うん……」
瞬が恥ずかしそうに、またぽっと頬を染める。

二人のそのやりとりを見せられた一輝は、まるで沸騰しまくって湯のなくなりかけたヤカンのようだった。
頭から、空回りの蒸気がヤケになったように噴出し続けている。
氷河はといえば、もう隠す必要もないとばかりにしっかりと瞬の肩を抱き寄せ、瞬は氷河になされるがまま彼にぴったり寄り添って、その胸に半分顔を埋めている。
紫龍と星矢は、むしろ、一輝の方に同情を覚えた。

「では、あれはすべて作り話か? だとしたら、ディテールまで凝りすぎだぞ。すっかり騙された」
「瞬を手に入れて妄想する必要がなくなって久しいのに、あんな作り話がすぐ思いつくものか。あれは、2年前、俺が初めて瞬を抱いた時のことを夕べの出来事に仕立てあげただけだ」
こともなげに言い放つ氷河を、一輝が憎悪に燃えて睨んでいる。
「やだ。ほんとに僕、氷河と同じこと考えるようになっちゃってるんだね。僕が星矢たちに話したのも、あの時のことだよ…」
少しはにかみながら、瞬も言う。
その言葉に、星矢と紫龍は互いに顔を見合わせた。

「それにしちゃ、全然違う話だったけどなあ」
「え?」
星矢の呟きを聞いて、瞬はふっと顔をあげた。
「全然違う?」
不安そうに首をかしげる弟を見て、一輝はやっと息を吹きかえした。
すでにそういう仲になってしまっているものは仕方がない。
それならそれで、二人を引き離してしまえばいいのだと、一輝は考えたらしかった。
一輝は、咳払いをひとつしてから、ちらりと軽蔑と厭味の混じった視線を氷河に投げた。

「貴様、まさか勘違いをして、違う相手との初体験の話をしたんじゃないだろうな?」
一輝の口調は、疑問形というよりほとんど反語である。
氷河はムッとした顔になり、挑戦的な眼差しを瞬の兄に向けた。
「言いがかりはやめてもらおう。たった2年前のことだぞ。俺は、あの時の瞬の仕草の一つ一つを克明に憶えている」
「ぼ……僕だって、あの時、氷河の言った言葉、全部憶えてるよ! 忘れるはずない! 間違うはずもない!」
「――それでも全然違ってたぜー?」
言わなければいいものを、星矢はひたすら正直である。

瞬は真っ青になり、氷河の表情もこころなしか凍りついている。
一輝ひとりが、二人の間に不信の種を撒くのに成功したと、悦に入っていた。
だが。
一輝は、実は、思いきり狙いを外してしまっていたのである。
彼のしたことは、正しく逆効果、だった。
険しい目をして2年越しの恋人を凝視していた氷河は、ぬっとその腕を伸ばし、突然瞬の手首を掴みあげた。

そうして氷河曰く、
「瞬、俺の部屋に来い! 二人であの時のことを再現してみるんだ。俺の記憶が間違っているはずがない!」
「えっ……氷河、でも――」
「デモもストライキも春闘もメーデーもない。来いっ!」
「そんな、氷河……! だって、今からそんなことしてたら、終わるの、夕方になっちゃうよ!」
「構わんっ !! 」
氷河はすっかりその気だった。
有無を言わせずにずりずりと瞬を引っぱって、城戸邸の長い廊下を自室に向かって一直線、である。
それは、一見、自分が疑われることに我慢がならないというよりは、瞬の記憶違いを正してやろうという、自分の記憶への絶対の自信からくる行動のように見えた。

「けどなー。客観的に判断したらさ、氷河の方が間違ってるんじゃねーの? 瞬は氷河としかシたことないんだろ? だったら氷河と違って記憶が混乱することもないだろーしなぁ」
「それはわからないぞ。瞬は自分がレイプされたという忌まわしい記憶を、自分で封印してしまったのかもしれない。そして、すべては自分の望んだことだと思い込もうとした――ということも……」
「そう言われてみれば、瞬の話の中の瞬って、確かに、いつもの瞬らしくなかったけど……。でもさ、紫龍。それなら、その逆ってこともありえるんじゃねーの? 氷河の方が、同情で瞬を抱いたって記憶を封印しちまったってこともさ。でもって、もしそうだったとしたら、あの二人、どーやったって2年前の××の再現なんかできないわけじゃん?」

紫龍は、嘆息混じりに頭を横に振った。
「だから、氷河は、2年前の真実なんかどーでもよくて、ただヤりたいだけなんじゃないのか」
「えーっ!」 
非難と軽蔑と驚愕とが入り混じった星矢の声。だが、紫龍の推察を否定する明確な根拠を、星矢は持っていなかった。

星矢たちの横では、氷河と瞬の証言の内容を知らされていなかった一輝が、レイプの同情のと聞くに耐えない“初体験報告”を聞かされて、泡を吹いている。
目一杯顔を歪めた星矢の耳に、110番通報して2時間も経った今になって、殺人現場を求めてやってくるパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。


かくして、氷河と瞬の“初めて”の物語は、藪の奥深くに隠され、永遠の謎物語になってしまったのである。

氷河と瞬は、はたしてどちらが真実を語っていたのでしょう。






Fin.






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