「ねえ、氷河。僕、憶えてるの」 瞬の叔父は集合建築を主とする建築デザイナーで、叔母は内装の方のデザイナーだった。 共働きの二人はいつも忙しく、帰宅も遅くなることが多い。 『ごめんなさいね、瞬ちゃん。仕事が一段落したら、ちゃんとお手製のお夕食を作ってあげるわね』 というのが、叔母の口癖で、 『今度休みがとれたら、どこかに三人で――いや、三人と一匹で旅行にでも行こう』 が、叔父の口癖。 二人がその約束を違えることはなかったが、その約束が実行されるのは、年に1、2度のことだった。 叔父夫婦のその口癖に触れるたび、瞬は、 『氷河がいるから、大丈夫ですよ。叔父さんと叔母さんが好きな仕事に打ち込んでいてくれるのなら、僕はそれがとても嬉しいです。僕のせいでお仕事を減らしたりなんかされたら、そっちの方が心苦しいもの』 と答え、それを聞いた叔父夫婦は済まなそうな寂しそうな顔をする。 少しは我儘を言ってやった方が叔父夫婦も喜ぶのだということは瞬にもわかってはいたのだが、瞬にはそうすることはできなかった。 子供の頃から我儘を言い慣れていないせいもあったが、それ以上に――それ以外にもう一つの理由があった。 瞬は、時々、今、自分の生きている人生が真実のものと思えないような、そんな錯覚を覚えることがあったのだ。 そのせいか、瞬は幼い頃から、物や人への執着が希薄だった。 これまで十数年間生きてきて、瞬がどうしても手に入れたいと思ったものはただ一つ、氷河だけだったのだ。 「僕、憶えてるの。あれはいったい何なんだろう? 僕、どこかで誰かと闘ってるんだ。すごく嫌なんだよ、人を傷付けるのは。嫌なんだけど、闘わなくちゃならなくて、闘わないと生きていることにならなくて、だから闘い続けてるの」 叔父たちのいない家で、瞬の話し相手は氷河だけだった。 「耐えられないような毎日でね、死んだ方がずっとましだって思うんだけど、死ねないんだ。そこには、僕を助けてくれて、見守ってくれている人がいて、僕が死んだらその人が悲しむから……。僕が死んだら、その人も死んじゃうから、だから、僕は生きてて、生きてられて……ねえ、ほんとに辛い毎日なのに、その人がいるから僕は生きてられるんだよ」 氷河の背を撫でながら“独り言”を続ける瞬の頬に、氷河が、くん、と少し尖り気味の鼻面を寄せてくる。 「僕と氷河みたいでしょ」 その暖かくくすぐったい感触に微笑んで、瞬は氷河の首を抱きしめた。 犬にしてみれば、あまり有り難い態勢ではないのだろうが、そういう時でも氷河はいつも大人しい。 まるで瞬の言葉が理解できているような目をして、瞬に為されるままでいる。 氷河の、アラスカン・マラミュートとしての価値を下げているはずのその青い瞳が、しかし、瞬は好きだった。 「その人、氷河と同じ目をしているような気がするの」 そして、その青い瞳に出会うたび、瞬の胸は懐かしさと切なさで、微かな痛みを覚える。 「なのにね、僕は、その人を残して死んじゃったんだ…」 それが本当にあったことの記憶の断片なのか、あるいは、瞬が一人で作り上げた空想物語なのかは、瞬自身にもわかっていなかった。 だというのに、その“記憶”を蘇らせるたび、瞬の瞳にはいつも涙が盛り上がってくる。 いつも、胸を締めつけられるような辛さと苦さに支配される。 そして、そんな時、自分を黙って見詰めている氷河の瞳に出会うたびに、瞬は、氷河がその辛さをわかってくれているような気がしてならなかった。 その瞳が、『おまえのせいじゃない』と言ってくれているような気がして、瞬はなんとか涙を拭うことができるのだ。 無言で鼻面を押し付けてきた氷河の頭を、2、3度撫でる。 それから、瞬は、 「ありがと、氷河。氷河は優しいね」 そう言って、氷河を再び抱きしめるのだった。 一度だけ、あまりにすべてをわかってくれているような氷河の眼差しを不思議に思い、氷河に尋ねたことがある。 「氷河はあの人の生まれ変わり?」 氷河は、少しためらっているように見えた。 まるで今の自分が人間でないことが苦痛であるかのように。 だが、氷河は頷いた。 頷いたように、瞬には見えたのである。 「……そうなんだとしても、そうでないんだとしても、でも、そんなこと、どうでもいいんだ。僕は氷河が大好きだから」 氷河のどこか辛そうな瞳を覗き込んでから、瞬は氷河の鼻の頭にキスをした。 「お散歩行こっか」 氷河は、散歩と聞いても、他の犬のように嬉しそうに吠えたり走り回ったり尻尾を振ったりはしない。 氷河は、その場に立ち上がった瞬の側に静かに寄り添うだけだった。 |