瞬の叔父夫婦は、瞬の死にひどく落胆した。 我儘一つ言ってくれず、どこか存在感の希薄な甥を、それでも彼等は我が子同然に――もしかしたら、それ以上に――気遣い、愛していたから。 悲しみとは別に、その愛情をろくに示してやれないまま、瞬に死なれてしまったことへの苦い思いと、あの子は少しでも自分たちを慕ってくれていたのだろうかという迷いが、彼等の中にはあった。 「……兄貴たちが既に亡くなっていたことだけが幸いか……」 瞬のいない場所で、力無く動こうともしない氷河を見て、瞬の叔父が放心したように言う。 瞬の手からでなければ食べ物を受け付けようともしない氷河の様子に、彼はある種の妬ましさをすら感じていた。 好きな仕事とはいえ、生活の糧を得るために、瞬と過ごす時間を犠牲にしてまで働き続けなければならなかった自分たちに比べ、この四足の獣は、瞬への愛情と忠誠心だけで生きてきた――今もそんなふうに生き続けているのだ――と。 瞬の叔母が、知り合いから、生まれたばかりの子犬を貰ってきたのは、瞬の死から一ヶ月が過ぎた頃だった。 生まれてひと月も経っていない、目が開いたばかりのノーフォーク・テリア。 それは、栗色の毛の、くりくりした瞳を持った小さな小さな子犬だった。 「氷河に元気出してもらわなくっちゃ。氷河は、瞬ちゃんの忘れ形見だもの。このまま氷河が死んじゃったりしたら、瞬ちゃんがきっと泣くわ」 「……」 いつも潤んでいるようだったあの瞳から涙が零れ落ちることはもう決してないのだと、瞬の叔父は妻に言うことはできなかった。 たとえ血の繋がりはなかったとしても、この女性は我が子を失くした母親なのだと、今更ながらな思いに胸が詰まりそうになる。 「そんな小さな犬、氷河に踏み潰されちまうんじゃないのか?」 少しおどけたように、瞬の叔父は肩をすくめて、妻に尋ねた。 「だって、大型犬を増やすのは無理でしょう? 2、3日、様子を見ましょうよ。こんなに可愛い子犬だもの、氷河もきっと好きになるわよ」 腕に抱きしめた子犬の瞳を覗き込む彼の妻の口調は、なぜか確信に満ちていた。 氷河は何をする気にもなれかった。 ほんの少し体を動かすことすら、億劫で仕方がない。 瞬のいない世界で、今の氷河の望みは死だけだったのである。 生きていることは苦痛でしかない。 半身を失う苦しみと痛みは一度味わえば十分だというのに、2度までもその辛苦を舐めたのである。 その絶望に、心を持ったものが耐えられるだろうか。 耐えなければならないものだろうか。 たとえ耐えなければならないものなのだとしても、氷河にはその気力はもう残っていなかった。 何か小さなものが氷河の側に寄っていきたのだが、氷河はそれには気付かなかった。 氷河の五感とそれ以外の感覚は死にかけていたから。 否、氷河はそれを自分自身で殺そうとしていたのだ。 無理に命を永らえさせようとする瞬の叔父夫婦や獣医師たちと戦うようにして。 『氷河……』 その小さなものが氷河の名を呼んだ。 氷河には、その声も聞こえていなかった。 聴覚も、氷河は殺していたから。 しかし。 それは突然、氷河の許を訪れた。 視覚や聴覚ではなく――五感や勘ではなく――もっと別の何かで感じるもの。 おそらくは、心で感じるもの――が。 氷河は、視覚を生き返らせた。 目の前に、小首をかしげて、ちょこんと座っている子犬がいる。 『氷河』 聴覚を生き返らせた。 その声には、どこかで触れたことのある優しい響きがあった。 どこでだ――? そして、それはいつのことだったのか。 いつも手が届く場所で、ついひと月前。 そして、それよりずっと以前に、息も交わるほどに身近で。 『しゅ……瞬?』 『うん。僕なの』 『瞬?』 『うん、そうだよ』 氷河は、死の影に曇っていた瞳を凝らした。 そこに瞬がいた。 小さな小さな子犬の姿をして。 注意していないと踏み潰してしまいそうなほど頼りない――しかし、氷河に大きな力を与えてくれる――小さな生き物。 その可愛いらしい生き物は、抱きしめることも抱きしめられることもできない手と足を備えていた。 だが、それが何だというのだろう。 瞬が、瞬の心を持って、氷河の心に触れてくれているのだ。 もう二度と出会うことも触れ合うこともないと思っていた、あの暖かい心が。 『ごめんね、氷河。僕、二度も氷河に悲しい思いをさせた』 『瞬……!』 瞬の叔父夫婦は、その時初めて、氷河が吼えるの聞いたのである。 狼の遠吠えに似た、だが、狼が自らの自由と孤高を誇るような悲壮な声ではなく、孤独から解放された歓喜の迸りのような声。 二人はその声に仰天し、子犬の身を案じた。 生まれて間もない子犬に、自分の十数倍はあろうかという大きな犬の咆哮は、恐怖をもたらすものでしかないだろうと思ったのである。 だが、二人の懸念をよそに、栗色の子犬は、氷河の叫び声を恐れる様子もなく、とことこと氷河の側に歩み寄っていく。 瞬の叔父夫婦が不安そうに固唾を飲んで見守る中、そうして、子犬は氷河の前足の間にちょこんと座り込んだ。 氷河が、まるで、生まれて初めて見るやわらかな宝石に触れるように注意深く、子犬の鼻の頭を舌の先でそっと舐めるのを見て、瞬の叔父夫婦はほっと安堵の息を洩らしたのである。 「どう? やっぱり相性いいでしょう? この子、瞬ちゃんみたいな目をした子だから、きっと氷河は好きになると思っていたのよ」 つい先刻まではらはらしていた自分自身を棚にあげ、我が子を失くした母親は少しばかり得意げにそう言った。 「氷河の奴、一人で寂しかったんだな」 「この子の名前、なんてつけましょうか」 「『瞬』しかないだろう。氷河がこれほどあっけなく陥落した相手なんだから」 「ええ、そうね。それしかないわね」 引き離されていた半身に巡り会えたかのように、いつまでも寄り添ったまま離れようとしない“ふたり”を、瞬の叔父夫婦は、小さな救いを手に入れたような気持ちで、微笑みながら見詰めていた。 Fin.
|