それから数日経った日の午後。
氷河は、自宅に、自称天才の訪問を受けた。
「少しは頭が冷えたか」
断りもなく氷河の家のリビングにあがり込んできた自称天才が、ソファの下に転がっている空のボトルをテーブルの上に戻して、長椅子にだらしなく仰臥している氷河を上から見下ろす。
「こんなことだろうと思った。まあ、薬に手を出さないたけマシだが」
不法侵入者を咎める気力もないらしい氷河の前に、紫龍が手土産をどさりと置く。

「酒の代わりにいいものを持ってきてやったぞ」
「なんだ、それは」
「見てわからんか。新巻鮭だ」
正月でもないのに、そんなものをどこから手に入れてきたのか――などということを訊く気にもなれない。
氷河は、彼の人生を虚無に変えてくれた長髪男に虚ろな視線を投げた。
その手土産が酒に鮭をかけたハイブロウな洒落だということがわかっているのかいないのか、くすりと笑いもしない氷河に、紫龍が嘆息する。

「恋の病は重症のようだな。どうせなら、鯉のアライでも持ってくればよかった」
苦労して手に入れた新巻鮭が全く受けないことを喜んで、紫龍はまた、くだらない洒落を口にした。
「まあ、いい。もっといい土産を持ってきてやった」
「いらん」
「まあ、そう言うな。――瞬、いいから入ってこい」
「しゅ……!」
この数日の間に、何千回何万回となく胸中で繰り返し呼んでいたその名に反応し、氷河が、弾かれたようにソファに身体を起こす。
ドアの前に、氷河の愛しいロボットがいて、彼は氷河の許しを得ずに室内に入っていっていいものかどうかを迷っているようだった。
「瞬……」

氷河は、そこに存在しているものがロボットでも人形でも何でも構わないから抱きしめてしまいたい! という衝動にかられたのである。
彼が、かろうじてその衝動を抑えることができたのは、瞬を手招いた紫龍が、実にふざけたセリフを吐いたからだった。
「おまえのために、神になってやったぞ」
「……神だと?」
「瞬を人間にしてやった」
「……」
何を、紫龍は言っているのかと思ったのである、氷河は。
自称でなく、真実天才なのだとしても、そんなことが人間にできるはずがない。
しかし。

「お酒、やめてください。こんな氷河……さんは、僕、見たくありません」
瞬の唇から出てきた言葉は、『氷河が望むなら』ではなく、注意や忠告でもなく、氷河の行為を否定する言葉だった。
「どういうことだ」
ロボットというものがどういうものなのか、氷河は知らない。
しかし、それは、あくまでも人間の制御下に置かれ、人間に反抗することがあってはならないものだろう。
氷河の不審を、紫龍はあっさり晴らしてくれた。

「まあ、簡単に言うと、瞬は最初から人間だったんだ」
という、とんでもないセリフで。
「な……なに?」
報われない思いに深刻に苦悩し、絶望しかけていた自分を、ただの道化に貶めてくれる紫龍の種明かしに、氷河のこめかみが引きつる。
「話すと長くなるから、経緯をはしょって説明すると、つまり――おまえの母親が船で死んだ時、本当はその気になればおまえの母親は生き延びることができていたんだ。この子の母親に救命ボートの席を譲らなければ」

氷河の罵倒と非難の機先を制して、紫龍は“経緯”とやらをまくしたて始めた。
「その頃、この子の母親は身重で、瞬がその中にいた。だから、な」
「氷河さんのお母さんの命と引き換えに、僕は生まれたんです」
呟きのように小さな声でそう言って、辛そうに顔を伏せてしまった瞬が、これまた氷河の怒りを殺いでしまう。
「……」

氷河は拳に集まりだした憤怒のやり場に困り始めていた。
「3年前にこの子の母親が亡くなって、臨終の際に、その話を聞いたこの子は、おまえの居所を調べたらしい。新聞記事から当たって、見つけるのに半年。この個人情報セキュリティ・ガードのきついご時世、12、3の子供にしては大した行動力と頭脳だ。で、おまえの居場所をつきとめて、それから3年以上、ずっとおまえを見ていたんだと」
「見ていた――とは、何のためにだ」

人間の瞬の境遇が、氷河の怒りを萎えさせていく。
「そりゃ、自分のせいで母親を失った孤独な男が、もし不幸でいたら助けてやりたいと思ったからだろう。それが人情ってもんだ」
「……なに?」
至極当然のことのように言う紫龍に、氷河は即座に頷けなかった。
それは人情だろうか。
普通の、ことだろうか。

「そ……そんな傲慢なこと考えたんじゃないんです。最初はただ……氷河さんが幸せでいてくれるのかどうか、それを確かめたかっただけで、でも、見ているうちに、氷河さんいつも一人で、僕とおんなじだって思って、見てるだけで励まされて、それで……」
それは、氷河にとっては普通のことではなかった。

あの不幸な女性にも、彼女が残した小さな息子にも、瞬は何の負い目を感じる必要もない。
少なくとも自分なら、『そんなことは自分には無関係だ』と思ってしまっていた――思ってしまおうとしていたはずだ――と、氷河は思った。
それを、だが、正直に瞬に告げて、薄情な男と思われるのも、氷河は嫌だった。
だから、氷河は話を逸らした。
「……一人? 他に家族はいないのか」
「父は母より先に亡くなりました。兄が一人いるんですけど、居場所もわからなくて――氷河さんを探す方がずっと楽でした……」
「……」

10数年前の古い新聞記事から氷河の居所をつきとめた瞬の能力をもってしても見つけられない兄に、瞬は悪い予感を感じているのかもしれない。
だからこそ、瞬は兄を捜すより氷河を“見ている”ことを優先させたのかもしれなかった。
「で、こないだ、俺がおまえのところにスルメを持ってきてやった時に、瞬がおまえの家を覗いているのを見つけてな。こそ泥にしちゃ隙だらけだし、その割に隠れるようにおまえの家の中を窺ってるし、怪訝に思って捕まえて事情を聞いてみたわけだ」
「……」
「俺は親切な男だからな。そんなに恩返しがしたいのなら、おまえの家に入り込む口実を作ってやろうと、言ったんだ」
親切な男を自称するような男の親切は、まず9割方はおせっかいである。

「何故、こんな手の込んだことをする必要がある! 最初から事情を説明してくれていたら――」
事情を説明されていたら、余計な差し出口か思いあがったでしゃばりだと、拒絶していたに違いない自分自身に思い至り、氷河の言葉が途切れる。
「おまえを真人間に戻す良い機会だと思った」
「俺は真人間だぞ」
「この子の欲しがっているものが、おまえから母親を奪ったことを許してもらうことでもなさそうだったんでな」
「何を……何を欲しがってくれていたんだ! 言ってくれたなら、俺はすぐにどんなものでも与えてやっていたのに……!」

氷河が瞬に求めていたこと。
それは、瞬に何かを求められることだった。
「それは無理だな。瞬と暮らし始めるまで、おまえはそれを持っていなかった。だから、欲しいなら、自分で手に入れろと言ったんだ、俺は、瞬に」
紫龍の説明を受けて、瞬の頬が真っ赤に染まる。
氷河は、唖然とした。
“それ”を手に入れるために、瞬は意思のないロボットの真似をし続けたというのだろうか。
母親や恋人と言えば聞こえだけはいい、使用人のような真似までも?
“それ”は、そんなことまでして手に入れるほどの価値があるものなのだろうか。
“それ”の持ち主である当の氷河自身にすら、“それ”の価値などわかっていないというのに。
だが――。

“それ”が無価値かもしれないなどということを、氷河は瞬に言いたくはなかった。
そして、瞬がそうまで求めてくれるものなのだから、“それ”には、もしかしたらとてつもない価値があるのかもしれないとも思った。
そう思えることが嬉しかった。
「……それは手に入ったのか」
ソファの前に立つ瞬を見上げ、尋ねてみる。
「わかりません。でも」
瞬の頬はまだ薄く染まったままだった。
「でも?」
「生きていくのは、一人より二人の方がいいと思いませんか」
瞬の瞳が切なげに、訴えるように氷河を見詰めている。
「……」

その通り、だった。
瞬を紫龍の許に戻してからの数日――わずか数日――、氷河は一人でいることの痛みにうめき続けていたのだ。
その痛みは、ロボットでもいいから、瞬に側にいてほしいと叫んでいた。

――二人に戻れる。
氷河の胸は、歓喜と期待のために、強く脈打ちだしていた。
遠足前日の子供のような自分自身に戸惑って、氷河は無理に難しい顔を作った。
そして、言った。
「――俺はおまえが側にいると胸が苦しくなるから、俺の側にいて欲しくない」
「我慢して、側にいさせてください」
『氷河が望むなら』ではない答え。
瞬は本当に人間なのだという思いが、氷河の心をますます浮かれさせる。

「おまえが側にいると変な気分になるから、側にいて欲しくないんだ」
調子に乗って言い募った氷河の戯れ言に、瞬はぽっと頬を上気させた。
「……それは、我慢しなくてもいいです」
「ほんとか」
こうなるともう、孤独を気取った冷静な態度など保ってはいられない。
思わず身を乗り出してしまった氷河に、瞬は拗ねた子猫のような目をした。
「何度も言わせるようなことしないで」
「……」

これは、ロボットの反応ではない。
生意気で可愛い人間のそれである。
不粋を咎めるようなことを言って恥ずかしそうに睫を伏せてしまった瞬の様子に、氷河は、思わずごくりと喉を鳴らしていた。
が、この場には約一名、氷河と瞬を結びつけてくれた有難い月下氷人がいたのである。
氷河は、感謝してもしきれないほど感謝している自分たちのキューピットに、邪魔な粗大ゴミでも見るような視線を向けた。
親切で思い遣りにあふれた粗大ゴミが、無礼千万な氷河の態度に気分を害した様子もなく、気をきかせる。

「ああ、じゃ、俺は帰る。礼は高くつくから、覚悟しておけ」
「ふん、貴様に礼を払う気などないぞ。俺は騙されてたんだからな」
「感謝のココロを知らない奴だな」
「知らんな、そんなものは」
二人の間ではらはらしている瞬を気遣ったのか、土産のはずだった新巻鮭を持ってリビングを出ていこうとする紫龍を、氷河は呼び止めた。
「紫龍」
「ん」
「とりあえず、礼だけは言っておく」
「珍しく殊勝だな」
「おまえも、いい加減に自由になれ」
「俺がおまえをからかうのは、おまえが馬鹿で面白いからだが」
「……それならいいが」
その場から自称天才の姿が消えると、氷河は小さく吐息した。

「氷河?」
瞬が怪訝そうな目を、やっと“二人”に戻れた自分の半身に向ける。
その視線を受けて、氷河は微かに肩をすくめた。
「紫龍の父親がな、あの船の航海士だったんだ」
「そう……だったんですか……」
初めて知らされたその事実に、瞬が瞳を見開く。
紫龍が、こんな手の込んだ親切を企んでくれたのは、彼が亡父の立場に責任を感じてのことだったのだと――少なくとも、氷河はそう考えているようだった。
「俺は奴を恨んだことなどないんだが。奴のせいではないんだし」
「そうですね。でも……」
傍目には仲が悪いとしか映らない――実際にも、仲は悪いのかもしれないが――奇妙な二人の関わり合いに微笑して、瞬は僅かに目を細めた。

「でも?」
「人間はそんなふうに理屈で割り切って生きていけるものじゃないから」
「そうか……」
瞬も、だから、氷河を探しだそうとした。
自分が負い目を感じる必要など何ひとつないというのに。
だとしたら、そんなふうに動く人間の心に、氷河は感謝せずにいられなかった。
「氷河だって――僕は氷河を騙してたんだから、怒ったって当然なのに」
「……そういえばそうだ。だが、俺も――」
ロボットだと思って、氷河は瞬に随分ひどいことをしたのである。
謝罪せずに済ませられないようなことを。
しかし、氷河は謝罪よりも先にしたいことがあった。

「まあ、これからたっぷりお仕置きをしてやるさ」
「はい!」
「……意味がわかってるのか」
あまりに明るい瞬の返答に、氷河が少々不安になる。
しかし、瞬は屈託がなかった。
「と思いますけど」
「いいのか」
「はい。だって――」
「だって?」
瞬が、切なげな、それでいて誘うような視線を氷河に向ける。
氷河が目眩いを覚えるほどに、それは蠢惑的だった。
「……僕も……それを望んでいるから」

その眼差しと争うほどに氷河の心と身体を刺激する瞬の声。
ついに手に入れた瞬の言葉を胸の内で噛み締めるように味わいながら、氷河は瞬を抱きしめていった。






Fin.






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