桜は、満開になるや、雪のように散り始めた。 これが、日本人の賞賛する『潔さ』というものらしい。 『潔い』ということは美徳なのか――。 俺の価値観では、素直に是とは言いかねたが、その光景が美しいことだけは事実だった。 散る桜の下に立つ俺を夢見るような眼差しで見詰め、瞬が尋ねてくる。 「僕のこと、ほんとに好き?」 「ああ。このまま、さらっていきたいくらいだ」 「そうだよね。嘘じゃないよね」 『好きだ』という言葉を、甘いお菓子をねだるように幾度も俺に言わせて、瞬は喜んでいた。 桜の雪を肩に髪に受けながら、瞬が俺の背広の袖を掴む。 「なんだ?」 爪先立って一生懸命背伸びをしてみせる瞬を訝って尋ねると、 「ちょっと屈んで。僕、氷河にキスしたいの」 という答えが返ってきた。 桜の花びらを一つ二つ髪に飾っている瞬を、俺は身体ごと抱き上げた。 「ふふ、子猫みたい」 瞬が、俺の首に腕を絡め、可愛らしいキスをしてくる。 「氷河は?」 お返しをねだられ、望みを叶えてやると、それで満足したのか、瞬は自分を下に降ろすようにむずかり始めた。 「ずっと抱いていたい」 そう告げた俺の顔を、瞬が覗き込んでくる。 瞬の瞳は、不思議なほど大きく、そして不思議なことに、ひどく深みがあった。 「僕、ずっと桜の散るところを見たかったの。この木の下に横になって、下から見上げたかったの。そして、花びらに埋もれて消えていくの」 「……」 「下に降ろして」 瞬が何を望んでいるのか、俺にはわからなかった。 だが、それは、あまりに儚い願いのように思われて、俺は瞬の頼みに従うことはできなかった。 俺と瞬の他に花見客のいない桜の木の下は、やわらかい下草で覆われている。 そこに横たわった瞬の上に桜の花びらが降り積もったら、瞬は本当に桜に埋もれて消えてしまうような気がした。――死人のように。 「地面じゃなくてもいいだろう」 瞬を抱きしめたまま、その場に腰をおろす。 瞬は、俺の腕の中で顔を仰向けて桜を見あげた。 「ああ、綺麗」 のけぞった喉と襟の袷から覗く白い胸。 桜の花びらが、そこにも忍び込んでくる。 俺は、片手で瞬の身体を支えたまま、もう一方の手でその花びらを取り除こうとした。 桜の花びらを摘もうとした俺の手を包み込むように、瞬の手が重なってくる。 「いいの、このまま埋もれてしまうの」 「俺も一緒に埋もれてしまう」 「僕を好きだって言ったよ」 「?」 「一緒に埋もれちゃおうよ」 桜の幻影はあどけなく微笑んで、俺を幽玄の世界に誘った。 ―― 願はくは 花の下にて春死なん その如月の望月のころ―― 西行法師の夢見た夢が、現実のものとして俺の手の中にある。 瞬と二人なら、このまま桜に埋もれ死んでしまってもいいと、確かに一瞬、俺も思った。 「君も俺を好きだと言った」 「氷河と一緒に埋もれてしまいたいの」 「それもいいな」 瞬が、俺の『好き』の意味を理解していなくても、そして、俺が瞬の言葉の意味を理解できていなくても構わないと、俺は思った――おそらく、自分勝手に。 この桜の下でなら、そんな一人よがりも許されるような気がした。 言葉ではないもので、俺と瞬は通じているような気がしたのだ。 俺の膝の上にいる瞬を抱きしめ、キスをする。 瞬の唇を味わいながら、俺は、肩から襟足を撫でるようにして、瞬の桜色の着物をはだけさせた。 「一緒に埋もれるの? 着てるの、邪魔なの?」 不思議そうに尋ねてくる瞬の胸に、唇を移動させ、押し当てる。 それから、際限もなく降り積む桜の花びらの中で、俺は瞬を抱きしめた。 桜雪の中のそれは、残酷なほど美しい行為に思えた。 瞬は、俺の愛撫と力とに喘ぎ、泣き、だが最後には、俺に『好きだ』という言葉をいくつも貰って、大人しくなった。 俺にとっては、桜が幻惑の源であったように、瞬にとっては、『好きだ』という言葉が、彼を酔わせる甘い魔法だったのかもしれない。 乱れた着物の襟と裾を申し訳程度に整えてやると、俺の膝の上にいた瞬は、まだ少し肩で息をしながら尋ねてきた。 「今のは何」 「……瞬が好きで、俺のものにしたかったんだ」 『好きだから』――その言葉が瞬への免罪符になることが俺にはわかっていた。 「僕を好きだから?」 「……いやだったか」 少し考え込んでから、瞬がぽつりと言う。 「氷河、何度も僕の名前呼んでた」 細い腕を、すがるように俺の首にまわし、瞬がしがみついてくる。 「母さんは違う人の名前を呼ぶの。あの人は母さんの名前を呼んで、僕をぶつの。でも、氷河は、僕を好きなんだよね」 「ぶつ?」 「あ、もうぶたれないよ。あの人はいなくなったから。でも、まだ恐い」 「あの人というのは」 「お父さんなんだって。でも、信じてないの、あの人は」 『あの人』というのは、先年亡くなった城戸家の当主のことだろう。 その男が、瞬を虐待していたというのだろうか。 桜の花のように――いや、抱きしめた後には桜などよりずっと愛しい、こんなに愛しまれるべきものが、その父に愛されていない――愛されていなかった――というのだろうか? 「……瞬、俺とここを出よう」 その言葉は、ごく自然に俺の口を突いて出てきた。 「氷河?」 「おまえを虐待する親など……いや、だいいち、おまえは学校に行ってるのか」 「学校……知らない」 予想通りの答えに眉をひそめつつ、その実、俺は内心で快哉を叫んでいたのかもしれない。 まともな思考力と健康な身体を持ったこの年齢の少年を学校に行かせていない。 それは、十分に虐待の証拠となるではないか。 俺がここから瞬を連れ出す口実として、それ以上のものは探しても見つかるまい。 とにかく、俺は瞬を自分の側から離したくなかった。 ここから瞬を連れ出し、俺の世界に連れていく。 社会的なことは全部その後で済ませてしまえばいいと、俺は、無分別な子供のように本気で考えたのである。 「明日……明日、もう一度ここに来てくれ。俺と一緒にここを出よう」 瞬の細い身体を抱きしめながら、俺は熱にうかされるように、そう言った。 「瞬を離したくない。もう俺のものだ。俺も瞬のものだ」 抱きしめる腕に力の加減がきかなくなる。 痛いのだろうに、瞬はそんなことは一言も言わなかった。 「氷河とどこかに行くの?」 「ああ」 それは、普段の俺なら考えられないことだった。 俺は、この桜の木の下以外の場所では、徹底した合理主義で名を売った、電算機と渾名されるほどに――冷静な経営者だった。 若くして父の事業を継いだ気負いもあっただろうが、そう評されることに、俺は誇りすら感じていたのに。 「二人でどこかに行くんだね」 自分を『好きだ』と繰り返す男との逃避行の計画に、瞬はまるで遊園地に出掛ける約束をとりつけた子供のように、瞳を輝かせた。 「素敵」 そう言って、瞬が俺の頬に頬を擦り寄せてくる。 「約束だよ。忘れないでね。絶対だよ」 幾度も幾度も約束をねだったのは、瞬の方だった。 だというのに。 翌日、桜の木の下に瞬の姿はなかったのである。 |