「普通の人なら5回くらい死んでるとこだって」 いくら本気の氷河でも、全身を30数ヶ所も骨折している状態では、瞬に攻撃を仕掛けることはできない。 泣きたい気持ちを懸命に抑えて、病院の寝台に横になっている氷河に、瞬は告げた。 氷河の敵対の訳を今度こそ聞き出そうと決意していた瞬は、今ここで悲劇のヒロインよろしく泣き出すわけにもいかなかったのだ。 「……」 絶対安静で、ほとんどベッドに縛りつけられている格好の氷河が、観念したように目を閉じる。 滑稽と評していいほど全身ギプスだらけの氷河の姿を見ていると、氷河の敵対の理由がどういうものであれ、冗談として聞き流すことができるような気がして、瞬は、遠慮なく彼を問い詰めようとした。 瞬の攻撃に先んじて、氷河が、まるで夢から目覚めたばかりの子供のような目をして呟く。 「一輝のことを、すっかり忘れていた」 「え?」 抑揚のない彼の声をよく聞き取れずに顔をあげた瞬に、独り言を続けるように、氷河が言葉を継ぐ。 「人には、いつも敵が必要なだけなのかもしれないな。争いが好きなわけじゃなく、争いから逃れられないからでもなく──」 てっきり、こういうことになった事情が聞けると思っていたところに、突然そんなことを言い出されて、瞬は大いに戸惑ったのである。 まさか、『人には敵が必要だから』、氷河が、その相手に自分を選んだのだとは、瞬は思いたくなかった。 「理由を言って。こんなことした訳。氷河が僕を敵にしようとした訳を」 氷河はまだ明瞭な意識を取り戻していないのではないかと訝りながらも、瞬は彼に問い質した。 「理由……」 実際、氷河の瞳は、まだ意識が明瞭ではないように、ぼんやりとしているように見えた。 「どうして、こんなことをしたの」 「平和で……幸せだったから」 瞳だけでなく口調も──まるで自失している人間のそれに似た口調で、氷河は虚空に向けて言葉を吐き出した。 「以前……ああ、そうだ、アスガルドで、おまえがミーメと闘った時だ。奴に、闘いの虚無と無意味を語られたおまえは、それでも一輝の言うことを信じて闘いたいと言った──んだろう?」 「……」 随分と昔のことに感じられる話を持ち出されて、瞬は瞳を見開いた。 そんなことを考えていた時期があったことを懐かしく思い出す。 あの頃 瞬は、まだ 心のどこかに迷いを抱えていた。 あの時 瞬は、まだ 自分自身の答えを導き出せるほどには、確固たる闘士になりきれていなかったのだ。 「後で、その話を聞かされた時、俺は、おまえはなんて愚かなんだろうと思った。多分に……嫉妬絡みだったような気もするが」 苦笑を、氷河は無理に作ろうとした──おそらく。 それは明確な形をとるまでには至らなかったが。 「だが、ある日気付いたら、俺自身が、あの時のおまえのようになりかけていたんだ。おまえが闘うから、俺も闘う。おまえが いつか訪れる平和を信じているから、俺も信じる。俺は、自分を失いかけていた」 「氷河……」 そんなことがあるだろうか。 瞬の知っている氷河は、他人の意見は おおむね無視し、時に反駁することで自分を主張することの多い人間だった。 「おまえは闘いが嫌いだ。善良でもある。そんなおまえを信じていられるのは、幸福なことだろう。まあ、間違った方向には進むまい。まして、おまえは、俺を好きでいてくれる。おまえが俺を嫌っていてくれたら、俺はその都度おまえを疑うこともできて、自分を顧みることもできていただろうが、おまえは俺に、そんなことさえさせてくれなかった。おまえといると、俺は自分を失う。おまえといることは、闘いよりも、俺を不安にした」 「氷河……」 「おまけに、おまえを抱くと、そのたび、俺の身体と心は おまえの中に取り込まれそうになるし――」 言うべき言葉を見付けられずにいる瞬に、氷河は、付け足しのようにそう言って、自嘲めいた表情を作った。 「なのに、俺はおまえから離れられない。おまえは温かくて心地いい。まったく、どうして自然は、おまえみたいな人間を作ったんだろうな。そして、どうしておまえを俺に出会わせたんだか──」 「氷河、何を言ってるの」 そんなことが、敵意を持たない人間をあえて敵にすることの理由になるのだろうか。 瞬は氷河の考えを理解しかねた。 「おまえと敵対すれば、そんな不安は消えると思った。俺自身を失うこともなくなると思った。おまえを信じることも容易になる。味方は裏切ることがあるが、敵は裏切らないから」 「氷河、ほんとに、そんな馬鹿げた理由で……?」 「馬鹿げてるな、確かに。だが……」 氷河は言葉を途切らせ、目を閉じた。 「本当にどうずればいいのか、わからなかったんだ。おまえが好きで──好きになりすぎて」 氷河の言葉に、瞬は瞳を大きく見開き、そして 氷河は本気でそんなことを言っているのだろうかと疑った──疑わずにいることができなかった。 そして瞬は、もしかしたら氷河は本当は、突然の敵対によって 壮大な愛の告白を計画しただけだったのではないかと思ったのである。 瞬は、返す言葉が思いつかなかった。 「要するに、ただの平和ボケ、幸せボケだ。おまえしか目に入っていなくて、他のことをすっかり忘れていたんだ、この阿呆は」 そこに、ふいに、瞬の兄の声が響いてくる。 まるで、氷河の愛の告白が一区切りつくタイミングを見計らってでもいたかのような登場の仕方だった。 事実そうだったのかどうかは、瞬にも氷河にもわからなかったが。 一輝は松葉杖をついて、そこに立っていた。 彼は、自力で歩くことのできる自分は 絶対安静状態の聖闘士に勝ったのだと主張するために、わざわざ気に食わない男の病室にまでやってきたようにも見えた。 「……その通りだ。俺は、俺と瞬のことしか考えていなかった。貴様みたいな鬱陶しい奴がいることを忘れずにいさえすれば、俺は別の危機感で緊張し続けていられたのに」 ベッドに縛りつけられているも同然の氷河が、悔しそうに顔を歪める。 「安心しろ。貴様が瞬を敵にしなくて済むように、俺がしばらく貴様等の側にいてやるぞ」 勝ち誇ったようにそう宣言した一輝の背後から、星矢と紫龍が姿を現す。 「あ、俺たちも。おまえみたいな馬鹿を野放しにしておくのは危険だってことが、今回のことで よーくわかったから、これからは俺たちも定期的におまえの邪魔をしてやるぜ。エサを与えとくだけじゃ駄目なんだな、犬ってのは。ちゃんとしつけなきゃ」 「うむ。生きている人間には、やはり断続的に試練があった方がいいようだ」 正面から堂々と責めることなく、ちくちくと嫌味を言ってくる仲間たちに、氷河は残念ながら皮肉のひとつも言い返すことができなかった。 「それは有難いな」 心底からの感謝なのか、自嘲なのか──それを口にした当人にも判別しきれない言葉を、皮肉の代わりに投げ出すように仲間たちに告げる。 絶対安静の怪我人を、切なそうな眼差しで見詰めている瞬にだけ、氷河は心の中で虚心に詫びた。 エデンの園、エリシオン、シャングリラ。 人はいつも理想郷を思い描き、夢見てきた。 だが、人が生きて存在するその場所は、それがどこであっても、どんな時にでも、至福の花園なのかもしれない。 ただ、その花園には絶えることなく、激しい嵐が吹き荒れているだけで。 今ある場所とその状態の両方を見失わずにいることが、人が最もよい幸福を得る最善の手段なのかもしれなかった。 身体が回復したら、幸福というジレンマに急きたてられて滅茶苦茶にしてしまった城戸邸の花壇を元に戻そうと、氷河は思った。 氷河は花が好きだった。 それは、瞬に とてもよく似ていたから。 Fin.
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