翌朝、見事に寝過ごして、氷河は10時過ぎに起床した。
それでもその起床時刻は氷河にしてみればいつもより2、3時間早いものだったのだが、できれば氷河はあの少年が学校に出掛けてしまう前に起き出して礼の一つも言っておきたかったので、目を覚まし 時刻を確認した時、彼は自分の寝穢いぎたなさに かなり腹が立った。
後日この邸を訪問するのは、何か下心を抱いていると思われてしまいかねないような気がして、氷河は どうにも気が進まなかったのである。
電話で起床を知らせると、使用人らしい壮年の男が鹿爪らしい顔で氷河のいる客用寝室を訪れ、食堂に案内してくれた。
広いテーブルにつき、余計なことをまるで口にしないボーイの給仕で、典型的イングリフシュ・ブレックファストをとり、食後のお茶を飲む。
初めての屋敷、見慣れぬ使用人。
居心地は、かなり悪かった。

「昨夜は よく おやすみになれましたか」
あの少年がいないのなら さっさとこんな屋敷は出ていこうと考え始めていたところに、ふいに昨夜の少年の声が響いてくる。
氷河は驚きつつも、だが、それでやっと幾分くつろいだ気分になることができた。
「──もうとっくに学校に行ってしまったのかと思っていたが……」
「僕は学校には行っていません」
そんなことは大した問題ではないと思っているらしく、彼はあっさり そう答えてきたのだが、皇室関係者ですら一般学府で集団教育を受けている現代において、いくら素封家の子弟といえど、それは十分大きな問題である。

「家庭教師でも雇っているのか」
「いいえ。以前はそうでしたが、今は独学で」
「……」
教師につかずに独力で知識を蓄える手段と姿勢を、17歳になったばかりの少年が本当に会得できているのかどうかを怪訝に思う気持ちがないわけではなかったのだが、彼の瞳の理知的な輝きは疑うべくもない。
氷河は、懸念を別の方向に移した。

「それも結構だが、それでは同じ年頃の友人ができないだろう」
「あなたにはいらっしゃいますか?」
すぐに、少年が反問してくる。
氷河はそれまで同年代の友人などというものを持ったことはなかった。
「そんなものはいなくても、生きていけるでしょう」
まるで氷河の返事を見越していたかのように、少年が言う。
「兄貴がいれば?」
「誰かがいれば」
会話のテンポが――その内容はともかくも――ひどく氷河の好みだった。
言葉の意味を理解するスピードからして、その少年が並々ならぬ知能の持ち主であることは明白である。

「だからか」
「は?」
「兄貴以外の者は必要ではないから──他人には興味がないから、俺の名も訊かない」
「……」
氷河こそが、実はこれまでそうして生きてきたのだが、どういうわけか 彼は自分をこの屋敷に招いてくれた少年の、何物からも──今 彼の目の前にいる男からも── 一歩引いた場所にいるような態度が不愉快に感じられてならなかった。
テーブルから、ガタンと音をたてて立ちあがる。
「俺は退散する。Thank you,boy 」

氷河は自分の上着を手にして、そのまま食堂を出ていこうとした。
広い屋敷だが、こういう手合いの建物の玄関がどこにあるのかくらいは察しがつく。
長いテーブルの脇を上座から下座へ歩を進め、氷河がドアの取手に手を掛けた時、
「瞬です」
手に入れられるとき思っていなかったものが、氷河に手渡された。
ほんの数秒足らずの間、瞬は考えていたらしかった。
氷河が振り向くと、瞬はテーブルの脇に立ち、僅かに首をかしげて、自らの招待客を見詰めていた。
考えて、彼が出した結論は、『名乗る必要はない』だったのだろう。
瞬は、なぜ自分が名を名乗ってしまったのか、我がことながら合点がいかないというような目をしていた。

「世話になったな、瞬」
氷河が目を細めて、再度礼の言葉を告げる。
「これからどうなさるんです」
「車を取りに行く」
「……」
どういう力に衝き動かされてか、自らの名を名乗ったというのに、あまりに素っ気ないリアクションを返されて、瞬は少しばかり不満そうだった。
ためらいつつ、瞬が もう一度口を開く。
「あの……あなたのお名前を教えてください」
「……」
その時、何かまた予感のようなものを、氷河は感じていたのである。
名を名乗らずに この場を立ち去った方がいいのかもしれない。
一刹那、氷河は そう思った。
「氷河だ。変な名だろう」
だが、名乗らずにいることも、彼にはできなかった。
それが礼儀というものであるし、それよりも何よりも氷河は、この小さな麗人に自分のことを知ってもらいたかったのだ。

瞬は、しばらくの間 無言で氷河を見詰めていたが、やがて意を決したように、彼に告げた。
「──僕、月曜日以外は、大抵ここにいます」
今度は氷河の方が黙り込む。
本当に瞬はそれを望んでいるのだろうかと思わないでもなかったのだが、少し ぎこちない笑みを浮かべ、氷河は瞬に頷いた。
「また来る」
「はい……!」
瞬の表情が、ぱっと明るくなる。
雲間から太陽が顔を出した あの瞬間のように、瞬の瞳は、氷河の前で、一瞬 素晴らしく明るく輝いた。

それが、薄闇の中を手探りで歩いていた一人ぼっちの少年が、自分に似た者に偶然出会い、それによって何かを失うかもしれないが、また、何かを得ることもできるかもしれないという予感に戸惑いながら受け入れ選んだ出会いだったことを、氷河はその時はまだ知らなかった。






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