瞬の国での日々は、文字通り、平和そのものだった。 水を汲み、羊を追い、貝を採り、騒がしい子供たちの相手をする――戦さに追われている日々とは違う、死と隣り合わせでいる緊張感のない、心地良い疲れ、安らかな眠り。 この国の住民も瞬も、戦さの傷は知っているのだろうに――否、知っているからこその笑顔と優しさと善良さ。 彼等は自分とは異質な人々だという認識を拭い去ることができないまま、それでも、だからこそ、氷河はこの国に惹かれていったのである。 (国に……と言うよりは……) 『国に』と言うよりは、『瞬に』だった。 子供等に言わせれば、『どんな強大な軍隊が攻めてきても、一人でそれを追い払ってしまう』ほどの力を持ちながら、その力を支配欲に従った方向に使おうとしない瞬は、氷河にとっては あまりに不可解な存在だった。 「僕が走るのが速いのは、風を自分の意思で動かせるからなんです。空気抵抗をなくして、追い風に乗れるでしょう? それに付いてこれるんだから、氷河って超人ですよ」 屈託のない笑み、優しい仕草、しなやかで伸びやかな肢体──なるほど戦さのない国でこそ存在しうる美しさだと、氷河は瞬を見るたびに思ったのである。 緑の丘陵、水色の空、空と同じ色の海、快い風──自然のすべてに同化しつつ、それでいて瞬は、それらの自然の何よりも美しい。 瞬は自然を愛し、そして、自然に愛されているのだ。 瞬の兄── 一輝──の、不機嫌そうな面持ちさえ別にすれば、この国での日々は実に心地良いものだった。 他人と関わり合いを持つことを忌み嫌っていた氷河には──もっとも、この国の外では、そんなものを持つ必然性も必要性もなかったが──瞬を見ていることを快いと感じてしまっている自分自身が不可解に思われた。 「氷河お兄ちゃんって、瞬ちゃんを好きなの? いっつも瞬ちゃんを見てるのね」 ミーアに言われて、氷河はそんな自分自身に驚きさえしたのである。 「ばっかか、ミーアは! この国に王さまを嫌いな奴がいるはずないだろ!」 「ミーア、馬鹿じゃないもんっ! トレミィの意地悪ーっ!」 飽きもせず大声をあげて泣き出したミーアをなだめる術を持っていない氷河は、あえて そのための努力もせず、ふいと横を向いてしまったのだが、内心で彼はかなり焦っていたのである。 さすがに女の子は勘が良い。 ほんの小さな子供であるミーアが気付くくらいなら、瞬も気付いてしまっているのではないだろうか──と思うと、瞬と顔を合わせることに抵抗を覚えてしまう。 (この俺は、本当に俺なのか……?) 自分が、よもやこんな感情を他人に対して抱くことがあろうとは、この国に来るまで、氷河は考えたこともなかった。しかも、相手は、500日程度しか歳の違わない、よりにもよって少年なのである。 だが、瞬と共に日を過ごすにつれ、その感情は薄れるどころか強くなっていくばかりで、やがて氷河は、そんな自分の感情を持て余すようになってしまったのだった。 確かに瞬は美しく、優しく、この国に咲くどんな花よりも可憐だった。 だが、だからといって、愛して良い存在ではない。 しかも氷河は、戦さには慣れていても、他人に対してそんな気持ちを抱くのは初めての経験で、つまるところ、彼には、そういう感情を抱いた人間がどう振る舞うべきなのかがわからなかったのである。 瞬の国にやってきてから5、60日も経った頃、そうして氷河は、自分自身にも意外としか思えない結論を、自分の内で導き出したのだった。 今 瞬が、自らの暮らしを幸福なものと思っているのなら、その日々を守ってやりたい――という、それは、これまで数千日に渡る長い日々に培ってきた自分の唯一の望みを断念する決意だった。 |