「僕、わかりません……。みんなが愛し合っていれば、それで争いなどなくなると思っていたのに……。アイザックが死んでしまったことは とても悲しいのに、でも、僕は、彼の命を奪ってしまった氷河を憎むこともできません。氷河……僕、心と意思をどの方向に向ければいいのかわからなくて苦しいです……」
夜に入って幾分落ち着きを取り戻すと、瞬は、氷河が懸念していた通りのことを口にした。

「おまえが――もうこんな世界などいっそ無くなってしまった方がいいと言うのなら、俺はおまえのために この世界を消滅させてやるぞ? おまえと一緒に消え去ることができるのなら、俺はそれでもいい」
そして、アイザックのことに言及したくなかった氷河は、話を一気にそこまで進めてしまったのである。
瞬は、しかし、力なく左右に首を振った。

「僕……僕は、でも、信じているんです……。きっと……きっと人は――」
「本当に信じているのか」
この世界の何もかもが瞬の望む通りになればいいと氷河は思っていたが、しかし彼は瞬の信じていることを 心底から信じたことは、本当はただの一度もなかった。
「信じずに、どうやって生きていくんです…… !! 」

泣きそうに切なげな声で、身悶えるように、瞬が氷河に訴えてくる。
氷河自身には到底信じることのできないその夢を、瞬がまだ捨て去っていないことを知って、氷河はなぜか安堵の思いを抱いていた。
不安のために少し距離を置いていた瞬の寝台に近寄る。
両手で身体を支え、なんとか上体を起こしていた瞬の肩を、氷河は抱きしめた。
もたれかかるものができて、瞬は少し楽になったらしい。
彼は、氷河の胸の中で、長く細い息を洩らした。

「――アイザックは、おまえのために自分の戦さを終らせた。俺はおまえの期待に沿うことはできなかったが、アイザックは――」
だが もしこれが、“世界を破滅させる力”を瞬が氷河に与える以前のことだったら、アイザックはこうして死を選んでいただろうか。
瞬と“力”をめぐって、結局は争いが起こっていたのではないだろうか――?
ふと、そんなことを考えて、氷河は瞬に気取られぬように首を振った。
そんなことではなく、希望を与える言葉を――氷河は今は瞬に言ってやらなければならなかった。
「――おまえの信じているものを、多分、アイザックはアイザックなりに……」
瞬が、氷河を見あげている。
できれば言ってしまいたくないことを、氷河は、しかし、やはり瞬に言ってやるしかなかった。

「アイザックは、おまえを気に入っていた。これは本当だ。でなければ、奴が大人しく野いちご摘みだの菜の花摘みだのに引っぱり出されたりなどするものか。ただ、俺が既におまえの側にいたから、奴はあんなふうにしか……」
瞬が、びくりと肩を震わせ、顔を伏せる。
そうしてから 瞬は、アイザックがまるで自滅を望むように命を投げ出していったその理由に、初めて考えを及ばせようとし始めたらしかった。
“世界を破滅から救う力を持つ者”がアイザックに嫌われていたわけではない――という“世界を破滅させる力を得る者”の言葉が真実なのであれば、それは謎ですらないことだったが。


再び瞬が口を開くまでには、かなりの時間を要した。
瞬は、そして、氷河にとっては思いがけない問いを発してきた。
「氷河、教えてください。僕は――憎しみに抗えずにアイザックの命を奪うようなことを氷河にさせてしまうほど、許されないことをしてしまったんですか? 氷河はもう、以前と同じようには僕を見ていてくれないんですか?」
瞬の緑の瞳が、いつにも増して透き通り、真剣な光をたたえている。
それは、氷河の返す答え如何いかんで 自分は自分の信じているものを信じられなくなると訴えているような、そんな眼差しだった。

「おまえは何も変わっていないが、俺には、昨日までのおまえより今のおまえの方が愛しく思える」
「僕は恐かったですけど、アイザックに嫌悪を感じたりはしませんでした。それでも?」
「瞬……」
その出来事に触れないでいて欲しいと思っているのは、瞬よりもむしろ、氷河の方だった。
「氷河もアイザックも同じだと思おうとさえしました。氷河、それでも?」
「瞬……!」

それ以上瞬に何も言わせたくなくて、氷河は力任せに瞬の身体を引き寄せ、抱きしめた。
いっそ、瞬を愛して死んでいった者への哀悼を涙ながらに訴えられた方が、氷河はよほど つらくなかった。
「それでも、瞬! 俺はおまえまで憎んでしまうようなことはしたくないし、できないんだ……!」
だいいち、それが瞬以外の誰かの上に起こったことであったなら、それは氷河にとっては罪ですらないことだった。
自分と関係のあった者が その翌日他の誰と寝ようが、何人と寝ようが、氷河にはそれは気に留めるようなことではなかったのである。
それが瞬の上に起こったことだからこそ、氷河には その事実がつらく感じられ、それが瞬だからこそ、氷河は瞬を許してやらなければならなかったのだ。
「氷河……」

瞬が、氷河の腕と胸にきつく抱きしめられて、くぐもった声を洩らす。
「氷河……ごめんなさい……ありがとう。僕、やっぱり信じていられます。氷河がそんなふうに言ってくれるのも、“心”と“愛”があってのことでしょう? アイザックは、そのことをも教えようとしてくれていたのだと思ってしまってはいけませんか……?」
「――」
氷河には何とも答えようがなかった。
ただ、自分が瞬を許すのは、そんな高尚な心の故ではないのだ――と氷河は胸の内で苦く思っていたのである。
“愛”ゆえに、瞬が他の男を知ってしまったことを許したのではなく、ただそんなことで瞬を失ってしまうことに自分の心が耐えられそうにないだけのことなのだ――と。
それが、憎しみや嫉妬の感情を“愛”が超えた結果なのだと言い切るだけの自信を、氷河は持っていなかった。

「氷河……。これまで、“世界を破滅させる力を得る者”は、大抵はこの国の民の中にいました。なぜ、僕の前に氷河が――外の国の人がやって来たのか、僕、なんとなくわかったような気がします」
「瞬……?」
氷河の迷いに気付いているのかいないのか、瞬が囁くように言う。
「氷河は外の国からやって来て、僕に“愛”をくれました。アイザックもそうです。僕の国の外にも“愛”はあるんでしょう? みんな、“心”の使い方を間違えているだけで……」
瞬が、氷河の肩にもたれたまま、氷河を見あげてくる。
氷河は、だが、それにも答えを返してやることはできなかった。

「僕、本当は、いつだって知っていたんだと思います。心がなければ、争いのない世界は簡単に実現できるってこと。でも考えないようにしていた。人の心が、そして愛が、憎しみや怒りや悲しみや不安を生み出すことは……」
「俺とアイザックが、否応なしに、それを知らせてしまった」
氷河の悔やむような言葉に、瞬は悲しそうに微笑した。
「でも、心がなければ、人は争いのない世界の実現を喜ぶこともできません。それじゃあ、何のために人は生きているのかわからないでしょう? 心は、憎しみや悲しみを生み、争いを生みますけど、でも、心を持っているからこそ、人は幸福の価値や平和の価値を知ることもできます」

心がなければ、“生”や“存在すること”への執着は、おそらく生れてこないだろう。
“無”を悲しむ心も、そこにはないのである。
「“心”があるから、世界が存在することや人が生きていることには意味があります。心の存在しない無機質な世界は汚れもなく綺麗でしょうけど、それを綺麗だと思う心は、そこにはないんですよね」
「瞬、いったい何を……」
瞬が何を言おうとしているのかが、氷河にはわからなかった。
争いがあるから平和の価値がわかる――などという言葉を、よもや瞬の口から聞くことがあろうとは、氷河は思ってもいなかったのである。
確かに氷河自身、これまで“愛”を実感することなく生きてきたために、瞬の優しさに惹かれたことは自覚していたが。

「――氷河。僕、この国を出ます」
氷河が支えていなければ、今にも崩れ落ちてしまいそうな細い肩の持ち主が、きっぱりと言う。
氷河は、自分の耳を疑った。
「僕の国の外の争いを遠目に見て、僕の国を美しいと思い、それを守っていること自体、間違っていました。もしかしたら、世界のすべてから争いがなくなるなんて、絶対に不可能なことなのかもしれない。けど、希望を持てるのも、心があればこそです。僕はこの国を出て、“世界”を自分の目で見てきます。僕の中の希望をすべて打ち消せるほどの絶望がそこにあるのか、僕はそれを確かめたい」
「瞬……!」

氷河は、瞬のその決意に諸手をあげて賛成する気にはなれなかった。
強い風に当たればすぐに死んでしまうかもしれない花を、誰が好んで野に植える愚を犯すだろう。
この国を出て、絶望に打ちひしがれ、変わってしまう瞬を、氷河は見たくはなかったのだ。
「……瞬。この国には、いたるところに花が咲いている。だが、この国の外では、戦場の片隅や荒廃した村の跡を必死になって探さなければ、それは見付けられないんだ」
「それを見付けて増やします。氷河、僕のこと、何も知らない、恐いもの知らずの子供が大言壮語しているのだと思っていますか」
「思ってはいない――が、瞬……。おまえは花よりも人の死や無気力にこそ多く出会うことになるだろう」
瞬は、透明な緑の瞳で氷河を真っすぐに見詰め、それでもきっぱりと言い切った。
「でも、氷河。いつか僕は、あの気流をただの風のそよぎに変えて、僕の国も僕の国の外も、穏やかに花びらの舞う至福の国エリシアムにしたいんです……!」
「……」

瞬は、既に決意してしまっているらしかった。
静かに瞼を伏せ、言う。
「夢かもしれませんね……」
「――緒麗な夢だ」
頷いて、氷河は瞬の肩を抱く手に力を込めた。
瞬がその夢を信じずには生きていられないと言うのなら、自分は、そんな瞬を守ってやるしかないではないか。
自分と瞬がこの国を離れ、神殿の地下深くにある あの“世界”に関与することをやめれば、“世界”はまさしく この世界に生きる すべての人間の手に委ねられることになる。

「氷河……それで、あの……氷河――は、ここが気に入ってくれているみたいだから、あの……僕の代わりにこの国を……あの……」
「瞬…… !? 」
急に気弱な口調で『あの』を繰り返し始めた瞬が 何を言おうとしているのかが、氷河は、にわかには理解できなかった。
そして、理解できた途端、彼は目一杯慌ててしまったのである。
「瞬! 何を馬鹿なことを言っているんだ !? この国は一輝にでも任せておけばいいんだ! 俺がおまえの側を離れることがあると思うのか!」
「氷河……」
瞬が――本当は瞬も、氷河が共に来てくれることを望んではいたのだろう。
だが、瞬は、自分の望みを口にしてしまってはならないのだと、勝手に決めつけていたのだ――おそらく。

「でも、この国にいれば、氷河は平穏に――」
「馬鹿なことを言うなと言っている! 俺の至福の国エリシアムはおまえだ!」
「氷河……」
大声で叫んでから、そして、氷河はやっとわかったような気がしたのである。
つまり、そういうことなのだ。
世界の一画の地下深くに“世界”があり、それがまた世界を内含しているように、氷河の至福の国エリシアムは瞬の心の中にあり、そして、瞬の心は氷河の心をも包み込んでいる――。

「俺の至福の国エリシアムはおまえだ……」
外の国の有り様が瞬を絶望に導くか、それとも、瞬は何があっても希望を失わないのか――それは、今はまだ氷河にはわからなかった。
窓の外には、瞬と初めて出会った時と同じ明るい月がこの平和な国を ほの白く照らしていて、それは幻想のように美しい。
「ありがとう、氷河……。僕、嬉しいです……」
幸福そうに微笑む瞬の瞳の輝きには、それも敵わなかったが――。






Fin.






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