今シーズン初の優勝、ポイントゲット、表彰台のシャンパン・ファイト──それらは、氷河に大した感慨を与えることがなかった。 お立ち台でのファン・サービス的見世物を終えると、氷河はヒーロー・インタビューもすっぽかしてプロジェクトHSのモーターハウスへと急いだ。 普通、決勝レースが終われば少なくともその日だけは、ドライバーはミーティングにも出ずにさっさとホテルに帰って身体を休めるものなのだが、氷河が表彰台での興行を務めていた間、プロジェクトHSではドライバーを交えての簡単なミーティングが催されていたらしい。 氷河は、プロジェクトHSのモーターハウス前で、レーシングスーツを身に着けたままの瞬を捕まえることができた。 「瞬……!」 氷河の声に弾かれたように振り向いた瞬の表情は、しかし、さほど気落ちしているようにも見えなかった。 「優勝、おめでとうございます、氷河。どうしたんです。プレスは、こんなに早く今日の優勝者を解放してしまったんですか?」 平生と全く変わらぬ瞬の その口調が、氷河の苛立ちを更に募らせる。 何やら殺気立っている様子の氷河に、瞬はにこりと笑ってみせた。 「今日はあまりあなたと話をしたくはありません。敗軍の将、兵を語らず、です。でも、次のモナコでは負けませんからね」 瞬に落胆の色がないのは、多分虚勢ではない。 それがわかっていながら、氷河は微かに横に首を振った。 「一輝にトラブルが起これば、おまえは勝てない。おまえは、俺たちF1ドライバーを馬鹿にしているのか! 俺たちは皆、勝つために、それこそ命がけで走っているんだぞ! おまえはいったい何のために走っているんだ!」 氷河が何に憤っているのか、瞬はすぐにはわからなかったようだった。 否、憤りの原因はわかっているのだろうが、なぜ氷河がそれに憤るのかが理解できていない様子だった。 「僕が何のために走ろうと、それはあなたには関係のないことでしょう? 確かに僕は自分が勝つために走っているわけではありませんが、だからといって、勝つために走っているドライバーの方々を馬鹿にしているわけでもありません。それなりの努力もしているつもりですし、たまたま入賞してポイントを獲得してしまうのは、その努力の代償だと思って差し支えないでしょう?」 「馬鹿げた理屈だ! ドライバーは皆、自分が勝つために走るんだ。そのために努力するんだ。最初から勝つ気のないドライバーに走る資格などない!」 「……」 なにしろ今日の氷河の言葉は“負け犬の遠吠え”ではない。 瞬はそういう類のことを他人と話し合うのは、できれば避けたかったのだが、氷河は何らかの結論を得るまでは瞬を解放してくれそうになかった。 「……その理屈でいくと、人間は人生に勝利するためだけに自分の生を生きていることになりますね。F1ドライバーらしいというか、アメリカ人的思考というか……。あなた、半分は日本人なんでしょう?」 瞬は、なんとか話の方向を逸らそうとしたのだが、氷河はそれに乗ってこなかった。 「おまえが“武士道とは死ぬこと”精神で走っているようにも見えないがな。おまえの走りは、一輝を勝たせるための走りだ。あんなレースがあるか。F1ドライバーなら、自分の勝利こそが最大の目的のはずだ! 勝利の可能性を持つ者が、その可能性に挑戦しないでいては、おまえに負ける者の立場がない!」 氷河の剣幕の訳を解しかねて、瞬は嘆息した。 氷河のこの攻撃的な性格から察するに、本来彼は自分の考えの正しさを“勝つこと”で証明しようとするタイプの男であるはずである。 プレス・インタビューを放ってまで、こんなところに来て説教をするような人間ではないはずだった。 「考え方の違いでしょう。あなたにとってはレースは個人戦なのでしょうが、僕にとってレースはチームプレイの場なんです。あなたが欲しいのは“世界一速い男”の称号でしょうが、僕が欲しいのは、僕のチームのマシンが世界一優れているという評価です。僕は、僕や僕の兄や僕のチームのスタッフが改良し、セッティングしたマシンヘの賞讃が欲しいんです。兄と僕が争って、どちらかがリタイアするようなことになるよりは、二人揃って入賞した方がいいに決まっていますし、僕が僕の体力の許すスピードで走って優勝しても、マシンの性能を誇示することにはなりませんから、兄に前を走ってもらう。どこか間違っていますか」 「……」 それは確かに誤った考え方ではない。 少なくとも一理はある。 だが、それは、ドライバーが考えることではなく、監督やチーム・オーナーが考えるべきことだった。 「おまえは、自分が勝ちたいとは思わないのか」 瞬がそういう考え方をしているのなら、何をどう話し合ったところで、会話は平行線を辿るだけだろう。 氷河は、とにかく勝ち急ぐばかりの自分自身に比べて、あまりに冷めた考えの持ち主を、ひどく哀しい気持ちで見おろした。 瞬が、氷河の視線の先で、居心地が悪そうに横を向く。 「使い古された言葉で申し訳ないですけど、僕は勝つために闘うんじゃなく、負けないために闘うんです。人に勝とうと思ったら、相手を傷付けなければなりませんが、負けまいと思う分には、そんなことをする必要はありませんから。卑怯だとおっしゃりたいのなら、そう言ってくださって結構です」 「負けまいとするおまえの走りのせいで、俺は俺のマシンを2台も傷付けてしまったが」 半分ヤケ気味の氷河の皮肉を、瞬は無理に気を張った様子で、受けとめてみせた。 「僕は同情心の篤い人間ではありませんから、勝手に自滅していった人が負った傷に責任を感じたりはしません……!」 顔に似合わずきつい瞬のその言葉に、氷河は微かに口許を歪めることになった。 「なるほど、おまえは体力でなく、気力で走っているわけだ。その顔からは想像もつかんセリフだな」 「顔なんか関係ありません! あなただって、僕のことどうこう言えるような顔をしてはいないでしょう!」 褒められたのか けなされたのかの判別ができなかった氷河は、瞬のその反論に 曖昧に笑うことしかできなかった。 幾分冷静になって考えてみれば、ライバルチームのドラスバーが瞬の走りに苛立つ必要などないのである。 他人がどういう考えの下にレースに挑もうと、何のためにマシンを走らせようと、氷河はこれまで一度たりともそんなことを気にかけたことはなかった。 勝つことを目的としないでF1マシンに乗り続けているドライバーは、瞬の他にも何人かは存在するのである。 妙なしがらみや金のため、それらを第一の目的として走っているドライバーを、氷河は幾人も知っていた。 (……そいつらを責めようと考えたことはなかったんだがな、俺は、今まで……) そういう輩に勝つことで、氷河は彼等の考えを否定し、無視してきたのである。 (だというのに、この子を無視できないのは──) やはりこの可愛らしい面立ちのせいなのだろうかと、氷河は、瞬の丸い大きな瞳をまじまじと見詰めてしまったのである。 華奢な肩に不自然に力を入れ、優しい線で描かれた眉を無理にきつくしている様子が、健気に思われ、痛々しく感じられ、ついでに背筋がぞくぞくしてくるのだ。 困ったことだと、氷河は思った。 「なんです、人の顔、じろじろ見て。僕の顔、オイルでもついていますか」 丁寧といえば聞こえが良いが、他人行儀な言葉でそう言い、瞬は右手の甲で、ごしごしと自分の鼻の頭をこすった。 「……本当に──顔に似合わないことを言い、顔に似合わないことをする子だな」 「なんです……?」 あきれたように言う氷河をきょとんと見あげ、瞬が首をかしげる。 氷河は、楽しくない話は適当なところで切りあげてしまうことにした。 「モナコヘの移動は、何日かあとなんだろう? おまえを今夜の夕食に誘いたいんだが」 「は……?」 瞬が、突然日本語が理解できなくなったような顔になる。 ここで笑ったり顔を崩したりしては、目的が達成されにくくなることを知っている氷河は、あくまでも真顔を保ち続けた。 「もし予定が入っているのなら、そちらをキャンセルすべきだ。俺はおまえの関心を引こうとして口の滑りが良くなったあげく、言ってはならないチームの事情を洩らすかもしれない。おまえにとって俺はとても重宝な情報源だと思うが」 じわじわとモーターホームの壁際まで追いつめられ、後がなくなった瞬だったのだが、彼は慌てず、また騒ぎもせず、怪訝そうな目で氷河を見詰め返してきた。 「僕たちのチーム、今夜、あなたのチームの紫龍さんや星矢と一緒にごはんを食べることになってるんです。あなたのとこ、彼等しか日本の人がいなくて、たまに違う人と日本語を話したいんだそうです。あなたはどうせどこかの女の方と一緒だろうから、誘うだけ無駄だと言われました。彼等、とっても面白い人たちですね。マシンが何より好きみたい」 (あの野郎ども……!) 「ふ……ふん……? 奴等とはいつ知り合ったんだ? 最大のライバルチーム同士で、情報交換も何もないだろうに」 真顔を保つのが、非常に苦しい。 あの二人に余計なことを暴露されてしまってはまずいことが、氷河には多々あった。 「ええ。第1戦が終わった後、星矢に怒鳴りこまれたんです。なんて走りするんだ──って。うちの可愛いマシンを無意味に壊してくれるな──って。それからちょっと話をして、あなたの腕が未熟だったんだってことで話がついて、それで仲良くなったんです。日本国民会、作っちゃった」 「……」 瞬のこの親しげな口振りは、いったい何なのだろう。 自分に対する態度と比べてみるに、どう考えても、瞬は紫龍や星矢にあることないことを吹き込まれて、自分を警戒しているのだとしか、氷河には思えなかった。 「じゃあ、僕、そろそろ行きます。夕食までに仮眠を取りたいんです。お友だちの女の方に、よろしく言っておいてください」 「……あ、おい、瞬……!」 瞬の中にある邪魔な先入観を取り除くことが、氷河に課せられた第一の課題であるらしい。 またしても見事に瞬に逃げられてしまい、氷河は顔を引きつらせることしかできなかった。
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