「瞬、よくやったぞ! さすがは俺の弟だ、素晴らしい!」 気が付くと瞬は、パドックで兄や自チームのメカニックたちに囲まれていた。 雨のあがったサーキット。 皆の歓喜と熱気に包まれて、瞬は夢心地のまま、表彰台の中央に上った。 そこに、少し遅れてやって来た氷河の姿を見た途端、瞬の心臓は大きく跳ねあがってしまったのである。 氷河は、瞬が これまで一度も見たことがないような穏やかな表情をしていた。 少し寂しそうではあったが、確かに微笑んでいた。 思いがけず優しいその眼差しに、瞬は戸惑ってしまったのである。 感情の起伏の激しい氷河のことであるから、嘆くにしても怒るにしても、彼自身の敗北とライバルチームのドライバーの勝利を現実のものとされた氷河の反応は、尋常でなく苛烈なものになるだろうと瞬は思っていたから。 瞬は、全世界に衛星中継されているこの表彰台の上で頭を下げてでも、氷河にF1引退を思いとどまるよう頼むつもりだったのだ。 「──おまえの勝ちだ」 氷河が、低い声で瞬に告げる。 「だが、あまり悔しくはないな。もし最終コーナーで、おまえが俺をオーバーテイクしていかなかったなら、こんな気持ちにはならなかっただろうが、少なくとも、あのオーバーテイクは、俺との賭けに勝つためのものではなく、おまえ自身が勝つためのものだったろうから――。おかしな話だが、おまえが一輝を勝たせるためではなく、おまえ自身が勝つために走ったのだということが、俺は嬉しいんだ。見事にしてやられたというのにな」 「氷河……」 氷河は、瞬が長い間 憧れ続けていたドライバーだった。 そして、やはり彼はそれだけの価値のあるドライバーだったと、瞬は思った。 それでも幾分寂しげに 表彰台の瞬より一段低い場所に上る氷河を、瞬はじっと見詰めていた。 表彰台の段差が、氷河と瞬の肩を同じ高さにする。 瞬は、ほんの少しためらってから、一つ一つの言葉を噛みしめるように ゆっくりと氷河に告げた。 「氷河。僕は氷河が好きです。僕は、氷河の引退なんか許しません。僕はこれからも毎年氷河と闘って、そして、氷河に勝ち続けたいです」 氷河は既に、瞬もF1も、これまでのすべてと これからのすべてを諦める覚悟をしていたようだった。 ここで未練がましく前言を撤回し、瞬の軽蔑を誘うことだけは避けなければならないのだと、氷河は自分自身に言い聞かせていた――おそらく。 「しゅ……瞬……?」 「それでもF1から引退するって言い張るなら、僕、ここで氷河にキスしちやいますよ。全世界に衛星中継されてるところで、そんなみっともないことされたくないでしょ?」 鈴鹿と違って、ここには日本語を解する者はほとんどいない。 お立ち台で交されている自分たちの会話も、おそらく互いを称え合う美しい光景として、全世界に放映されているに違いない──そんなことを考えながら、瞬は壇上で氷河の返事を待ったのである。 エスメラルダの言ったことは当たっていたようだった。 それまで諦めの感情を伴って穏やかだった氷河の瞳の色が、目に見えて変わっていく。 全てを失いかけていた男が、全てを取り戻したのである。 その喜びが並大抵のものであるはずがない。 そして、“感激して、もっともっと瞬ちゃんのことを好き”になってしまった氷河のとった行動もまた、あまり一般的なものではなかった。 「ひょ……氷河……? な……なにする気です…… !? 」 瞬が嫌な予感を覚えて壇上から飛びおりようとした時には、もう遅かった。 「瞬…… !! 」 氷河は表彰台の上で、それこそ骨も折れんばかりに強く瞬の身体を抱きしめ、その唇を自分のものにしてしまったのである。 3位入賞者が仰天して表彰台から転げ落ち、全世界に衝撃が走った。
Fin.
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